豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍のひとりに数えられた名将
加藤清正は、数々の武功をあげた人です。
また戦うだけではなくその戦略は見事なものでした。
豊臣秀吉亡き後は、徳川家康のもとに仕え1611年に享年50歳でこの世を去りました。
そんな加藤清正の子孫にはどのような人がいたのでしょう。
またその血は今も受け継がれているのでしょうか。
今回は清正の子孫について調べてみましょう。
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加藤清正の家系図
加藤清正の家系図です。
本文に登場する人物は、太字になっています。
加藤清正の子孫は続いている?
加藤清正の死後
清正の死後、跡を継いだのは三男の加藤忠広でした。
清正には3人の男の子がいましたが2人は幼い時に亡くなっています。
ですから三男の忠広が継ぐことになったのですが、当時彼は11歳でした。
それ故に家臣をまとめることがなかなかできなかったと言われています。
その上、気性も荒い人で、父親の清正とは随分違ったようです。
加藤家改易へ
その加藤忠広には2人の男の子がいました。
長男の加藤光広は、大名たちの名前と花押を押した謀反の書状を作って遊んでいました。
もちろん子供のいたずらで、全くの作り物です。
それが幕府の知るところになり、お家取り潰しとなったのです。
忠広が清正の跡を継いで21年後の1632年のことです。
この子供の戯れが改易にまで発展してしまうとはかなり厳しい処置だと思われます。
ではなぜそこまで厳しくされたのでしょう。
幕府はもともと豊臣秀吉の家臣であった加藤家が疎ましかった上に、
忠広が徳川家光の弟忠長と親しかったことが気に食わなかったのです。
その上まともに家臣を統率できない忠広に、大名たる資格がないと考えたのでしょう。
改易後の加藤家
加藤忠広は出羽国(現在の山形県鶴岡市)に1万石の所領を与えられました。
改易となっても、そこで文学や和歌を親しみ悠々自適な毎日を送っていたそうです。
忠広の長男で改易の原因を作った光広は、蟄居させられていましたが、改易となった翌年病気で亡くなっています。
次男の正良は真田家に預けられていましたが、父の忠広が1653年に亡くなると、後を追うように自刃してしまいました。
正良には後継者がいなかったようです。
加藤清正には娘がいましたが、子供を授かることはなかったそうです。
ただ、山形に移ってから忠広は男女の子供を設けています。
男の子は加藤光秋というそうですが、彼のその後はわかっていないようです。
女の子の方は婿を取り、
山形でも有名な庄屋である加藤与治左衛門として江戸時代に続いて行きました。
この与治左衛門家は明治天皇を自宅に迎えるほどの名家となっていたそうですが、
やがて没落してしまいます。
この与治左衛門家の最後の人が女性科学者の加藤セチさんでした。
彼女は息子がいたのですが戦争で亡くなっています。
ここで加藤与治左衛門の家も途絶えてしまうのです。
ということは、加藤清正の直系の子孫は今はいないことになります。
しかし、分家の方々が大勢おられるそうで清正の血は現在も受け継がれていると言えます。
きょうのまとめ
加藤清正があまりにも堂々とした生き様を見せたので、
ちょっと頼りない子供たちだったように見えますがその血は確実に続いているのですね。
山形では大名ではなく、大庄屋として加藤家を盛り立てていった子孫の皆さんが頼もしく感じます。
やはりあの加藤清正の血を引いてるだけありますね。
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