豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いをはじめとして多くの戦さ場で武功を挙げた
加藤清正。
秀吉が亡くなると徳川家康に近づき、関ヶ原では東軍として手柄を上げました。
その恩賞に肥後国と豊後国の一部を与えられ熊本藩主となったのでした。
そんな武将が突然病に倒れ、そのまま息を引き取りました。
加藤清正くらいの有名な人物となるとその死因にも多くの説があるようです。
そのひとつには、服部半蔵による暗殺だったとの話も含まれています。
今回は数ある加藤清正の死因についてみていきましょう。
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加藤清正の死因
性病説
加藤清正はかなりの遊び人で、朝鮮出兵の際にも女遊びをしていたようです。
その時に梅毒を移されたという説があります。
梅毒にかかると約10年ほどで死に至ると言われていますから、
加藤清正の死んだ時を考えるとぴったり当てはまるのです。
この時代梅毒など性病が猛威をふるっていたといいますから、
この説は全くないとは言い切れません。
ただ梅毒に罹っていたとなると、突然症状が悪化し死に至るものでしょうか。
やはり何か違う気がしますね。
ハンセン病説
ハンセン病もこの時代に流行っていた病気です。
豊臣秀吉の家臣で石田三成の腹心の友であった大谷吉継もこの病気に罹っていました。
ハンセン病にかかると皮膚のあちこちが腫れたり、
ただれたりし腫瘍のようなものができます。
大谷吉継はこれを隠すために身体中に包帯を巻いていたそうです。
しかし加藤清正がそんな格好をしたことはなく、
それらしい症状もなかったようですのでこの説は余り信用できないですね。
毒殺説
加藤清正は豊臣秀吉に仕えていた人です。
徳川の天下になっても豊臣への恩顧の思いは変わらなかったでしょう。
徳川家康と豊臣秀頼の仲裁役だった清正は、
二条城で行われた2人の和議の話し合いの時に出された毒まんじゅうを食べて死んだという説があります。
この時、なぜ清正は毒入りまんじゅうを食べたのでしょうか。
一説には、本当は秀頼に出されたまんじゅうに毒が仕込まれていることに気づいた清正がわざとそれを食べたとも言われています。
つまり秀頼を庇って命をかけたということですね。
豊臣家への愛が非常に強かったことがわかります。
しかし、清正は熊本へ帰る途中病を発症しています。
毒まんじゅうなら、命を落とすのにそのような時間はかからないと思われます。
ただその毒がヒ素のようなゆっくりと時間をかけて効くものであり、
それを毎日少しずつもられたものならわからなくもないですが。
そうすると毒入りのまんじゅうではなく、毒入りの料理を毎日食べさせられていたことになりますね。
また、家康と秀頼の和議の話し合いの折、
服部半蔵によって毒をもられたという説もあります。
半蔵はご承知の通り忍びの者です。そして徳川家康の配下でした。
半蔵が暗殺をしたとするなら、
家康の命令があったからだと断言できます。
豊臣をいつまでも主君だと忘れない清正らが、
家康には目障りであり、また恐怖だったのでしょうか。
服部半蔵が毒を使ったとすればどのような毒だったのでしょう。
きょうのまとめ
加藤清正は熊本への帰路、船内で倒れそのまま回復することなく亡くなりました。
享年50歳でした。
その死因は、諸説ありますが、真実は謎につつまれています。
ただ清正の死後、
家康と秀頼の和議に立ち会った豊臣に縁の深い浅野幸長、池田輝政らも立て続けに亡くなっているのです。
これはただの偶然なのでしょうか。
加藤清正の死は、実に興味深いです。
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