東ローマ帝国のユスティニアヌス帝は次々と領土を拡大。
一時はかつてのローマ帝国の栄光をすら取りもどす勢いを見せます。
優秀な人たちに支えられ、国内の制度を新しく整えなおし、ライバルとは激闘を繰り広げます。
ところがその晩年に思わぬ落とし穴が続々とおそってくるのですが……。
彼の波乱万丈の人生から今の私たちの生きるヒントをいっぱい見つけてゆきましょう。
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ユスティニアヌスはどんな人
- 出身地:ダルダニア州タウレシウム(今のマケドニア共和国スコピエの近く)
- 生年月日:483年5月11日
- 死亡年月日:565年11月14日(享年82才)
- 東ローマ帝国皇帝。ローマ帝国の栄光を取り戻した。
ユスティニアヌスの年表
483年(0才)ユスティニアヌス生まれる
518年(25才)ユスティニアヌスの叔父ユスティヌス、東ローマ帝国皇帝に即位
525年(42才)ユスティニアヌス、テオドラと結婚
527年(44才)ユスティニアヌス、東ローマ帝国皇帝に即位
532年(48才)ニカの乱起こる
534年(51才)ヴァンダル王国滅亡
540年(57才)東ローマ帝国、ササン朝ペルシャと開戦
543年(60才)東ローマ帝国内でペストが大流行
553年(70才)東ゴート王国滅亡
565年(82才)ユスティニアヌス亡くなる
ユスティニアヌスの生い立ち
ユスティニアヌスは今のマケドニア共和国あたりに住んでいた農民の息子です。
ところが、叔父のユスティヌスが軍人となってドンドン出世、とうとう東ローマ帝国の皇帝にまでなってしまいました。
ユスティニアヌスはユスティヌスの養子になっております。
おかげで若いうちから英才教育もしっかりほどこされております。
こうして、かしこくて人受けの良いユスティニアヌスは叔父さんの皇帝の位を継ぐことになりました。
ユスティニアヌスを支えた人たち
ユスティニアヌスは自分を支えてくれる人材にとても恵まれております。
人の言うことをよく聞く人だったといわれておりますので、人徳ですね。
また、だれのどの意見が信用おけるかを見極めるのもとても上手だったのでしょう。
ユスティニアヌスを支えたのはこんな人たちです。
皇妃テオドラ
彼女はおどりこの出身。
とても美しくて、かしこく、ユスティニアヌスのよい相談相手でした。
“ニカの乱”が起こった時、ユスティニアヌスは皇帝の位もピンチでした。
ところが、テオドラがユスティニアヌスのやる気を上手に引き出し、このピンチを切りぬけさせました。
名将ベリサリウス
東ローマ帝国がほこる最強の将軍です。
はっきりいってユスティニアヌスが新しく広げた領土のほとんどはベリサリウスが戦争で活躍しまくって獲得したようなものです。
ちょっと野心的ですが、相当たよりになるヤツです。
法務長官トリボニアヌス
『ローマ法大全』を作り上げるのにものすごくがんばってくれました。
「ローマ法」はその後も、世界中の法律に大きな影響をあたえ続けます。
ユスティニアヌスの強力なライバルたち
ユスティニアヌスの東ローマ帝国は必ずしもずっと順風満帆だったわけではありません。
立ちはだかる強大な敵たち。
ササン朝ペルシャのホスロー1世
ササン朝史上最大の名君とうたわれております。
東ローマ帝国とは長年にわたり一進一退の攻防をつづけました。
ランゴバルド
当時、中央ヨーロッパにいたかなり勇猛な部族です。
ユスティニアヌス帝の死後、東ローマ帝国が支配するイタリアに攻め込み、たちまち占領してしまいました。
ユスティニアヌスの晩年
ユスティニアヌスは途中まで本当に栄光ある皇帝でした。
ところが、
●ササン朝などとの長年の戦争疲れ
●皇妃テオドラが早くに亡くなった
などとマイナス要因が重なります。
しかも決定的なのは543年のペストの大流行。
帝国内の人口はなんと半減してしまい、深刻なダメージはせっかく上向きつつあった帝国を衰退へとみちびいてしまいました。
きょうのまとめ
ユスティニアヌスの東ローマ帝国は今のトルコあたりを中心に栄えておりました。
そのため、アジアとヨーロッパ両方の影響を受け、とっても独特にエキゾチックな文化がさかんになります。
たとえば、ビザンチン美術と言われる「モザイク画」や「イコン」など。
今のトルコのイスタンブールやイタリアのラヴェンナをおとずれてみてください。
ユスティニアヌス時代のとっても美しくて魅力的な遺跡が残り、とりこにされちゃいます。
① ユスティニアヌスはいろんな人に助けてもらい、東ローマ帝国皇帝として「ローマ帝国の栄光」を一時取り戻した
② ユスティニアヌスのライバルササン朝ペルシャやランゴバルドはとっても強力
③ ユスティニアヌスの晩年は不幸が続き、東ローマ帝国は衰退していった
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