ハインリヒ4世vsグレゴリウス7世!「カノッサの屈辱」とは

 

11世紀日本では、藤原氏全盛期から院政・武士の時代へと移り変わっていっておりました。

ちょうどこのころ、ヨーロッパではローマ教皇神聖ローマ皇帝による主導権バトルがものすごく激しいことになっておりました。

そのハイライトともいうべきが1077年“カノッサの屈辱(くつじょく)”です。

簡単に言うと、片方が片方に「まいりました。もうしません。」と許してもらえるようお願いしたのですが。

どっちが?

ていうか、くわしい内容はどんなの?

で、その後、どうなったの?

グレゴリウス7世vsハインリヒ4世

 

ハインリヒ3世とハインリヒ4世

ローマ教皇庁が荒れておりました。

ベネディクトゥス9世は「教皇位を売ったり」「強姦(ごうかん)したり」「人を殺す」などかなりメチャクチャな教皇だと伝えられております。

そんな混乱に「おれも」「わしも」と教皇が並び立ち、3人。

そんな時に「3人とも辞めていただきましょう」とバッサリやったのが神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世です。

ベネディクトゥス9世だけ、「ははは、私はそう簡単には!」と復権しましたが、ハインリヒ3世はもう一度きれいにバッサリ(辞めさせる)やりました。

ハインリヒ3世の跡を継いだのが長男のハインリヒ4世です。

 

グレゴリウス7世の生い立ち

グレゴリウス7世イタリアの農家で生まれました。

ものすごく貧乏でした。

ところが、ローマ教皇庁にみこまれ、だんだん出世してゆきます。

そして、とうとう教皇になってしまいます。

当時のローマ教皇庁は相変わらず混乱しておりました。

なぜなら、いろんな人がいろんな政治的ちょっかいをだしてきていたからです。

その中の一番こそ神聖ローマ帝国です。

 

グレゴリウス7世の改革

グレゴリウス7世は改革を打ち出します。

1075年に教皇令27ヶ条を発布。

その内容は、

●ローマ教皇はキリスト教会だけでなく俗世間でも一番えらい

●キリスト教の職業・地位を勝手に売り買いしちゃダメ!

●キリスト教聖職者が結婚しちゃダメ!

●叙任権(じょにんけん。司教や大修道院長の任命権)を世俗の王様や皇帝が勝手にいじるな!

ところが、ハインリヒ4世ふつうに叙任権を行使し続けます。

グレゴリウス7世は「無視しとる場合か!」とばかりに訴えかけますが……。

ハインリヒ4世はかえって、「なめてんのか!お前、教皇クビ」。

これを受けて、グレゴリウス7世も「ローマ教皇の叙任権は世界一。お前みたいなやつ“破門”だ!王位も認めん!」とやりかえします。

叙任権闘争です。

 

カノッサの屈辱

こんな2人の争いを見て、神聖ローマ帝国内の諸侯らの間でも、

「今こそ教皇と一緒になってヤツ(ハインリヒ4世)をギャフンと言わせねえ?」

と反乱を起こします。

これを受けてハインリヒ4世はやばくなりました。

ハインリヒ4世はいてもたまらず、グレゴリウス7世がいるという北イタリアのカノッサまで行きます。

そして、修道士の服装で、武器を全部置き、

「悔い改めます。私が悪うございました」

このあやしすぎる謝罪にグレゴリウス7世はまじめなので、「なんじの罪を許す」とやってしまいました。

ハインリヒ4世はほとぼりが冷めると、「ハハハ?」とばかりにイタリアに攻め込み、グレゴリウス7世は逃げるしかなくなりました。

 

その後のヨーロッパ

グレゴリウス7世は気の毒に、間もなく教皇に返り咲くことなく死亡しました。

しかし、ローマ教皇庁はハインリヒ4世との対決姿勢をくずしません。

とうとうハインリヒ4世は息子たちにまで次々反逆され、死亡

終わってみると、神聖ローマ帝国のブランドはドンドンなくなり、ローマ教皇庁の全盛期がやってくることとなります。

 

きょうのまとめ

① ローマ教皇グレゴリウス7世は改革を行い、ローマ教皇の権力強化とローマ・カトリック教会の浄化をめざした

② 神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世はグレゴリウス7世の改革を無視し、おたがいの叙任権闘争が高まっていった

③ ハインリヒ4世は諸侯らの反乱でやばくなり、とりあえず「カノッサの屈辱」でグレゴリウス7世に頭を下げた。でも、ほとぼりが冷め
るときっちり軍事力にものを言わせ、グレゴリウス7世を失脚させた

グ7「こいつ、ひれ(で)ーな、なかなかハインリヒ」

1077年カノッサの屈辱

 










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