女性天皇でありながら、ただのお飾りの天皇に終わることなく、実際に政治の手腕を振るった
持統天皇。
在位期間中の功績の中で一番よく知られていることは、藤原京への遷都とそれに続く飛鳥浄御原令という行政法の発令です。
これらの2大事業とはどんなものだったのでしょうか。
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藤原京とは
まずは持統天皇の功績として最もよく知られる藤原京遷都について確認してみましょう。
藤原京造営、遷都のタイミング
公的には、天武天皇の皇后である鸕野讚良皇女が持統天皇に即位した同年、690年に着工し、4年後の694年に飛鳥浄御原宮から遷都したことになっています。
しかし実は、都の建設は676年から始まっており、遷都をした後も建設は続けられて、28年後の704年に完成したといわれています。
その後710年の平城京遷都まで使われた藤原京は、翌年に焼亡してしまったと記録されています。
藤原京とはどんな都だったのか
藤原京は、現在の奈良県橿原市と明日香村にかかる地域に造営されました。
当時は藤原京と呼ばれていたのではなく、「新益京」と呼ばれていたそうです。
ただし、中心部の宮は「藤原宮」と呼ばれていたことから現在では「藤原京」と呼ばれることがほとんどです。
平城京に遷都されるまで日本の首都として機能していました。
都の形状についてまとめてみると以下のようになります。
・唐の長安がモデル。
・条坊制(方形の中に碁盤の目状に組んだ左右対称の都市プラン)を採用し、格子状の街路を持っていた。
・都の北に内裏(天皇の居所を中心とした御殿)や官庁を置いた平安京や平城京と違い、藤原京では内裏と官庁は都の中心にあった。
・都の広さは、5.3km四方、最低でも25km²はあり、平安京や平城京よりも大きかった。
・都の周囲には城壁や門などの防衛機能はない。藤原京の中心部・藤原宮は5mほどの高さの塀で囲まれた1km四方の広さであった。
<藤原宮跡>
何のための新都造営だったのか
一代の天皇の在位中に数度の遷都が行われていたそれ以前と比べ、藤原京は持統・文武・元明という3代の天皇によって継続して使用されました。
おそらく機能的にも申し分のなかった都だと考えられます。
国内にそして海外へも律令国家としてのアピールをするため、唐の長安をモデルにして作られた本格的な唐風の都が藤原京です。
飛鳥浄御原令とは
この法令の前に天智天皇が制定した近江令がありますが、これは単独の法令を総称したものです。
体系的な法が整備されたのは、この飛鳥浄御原令が日本史上最初のものだったと考えられます。
ただし、現存していません。
飛鳥浄御原令の制作目的
天武天皇は、天皇家中心で
・大津皇子
・高市皇子
ら息子たち、皇后、そして皇室に近い人々で固めた専制的な政治を行いました。
それを維持し、政治を執行するためには官僚制度を作り上げ、法制度を整備する必要があったのです。
飛鳥浄御原令の目的はまさにそれでした。
発布のタイミングと内容
しかし、天武天皇は法制度の完成前に亡くなってしまいます。
その後皇后(のちの持統天皇)と皇太子草壁皇子は、その事業を継承。ところが689年に草壁皇子も早世してしまいます。
そこで、皇后は政情を安定させ、天武天皇の事業を続行する正統な後継であることを世にアピールするために、天武天皇の死後すぐに発令したのです。
そのため「律(刑法)」と「令(行政法)」の両方ではなく、令つまり行政法だけとなりました。
その後も持統天皇はさらなる法令の整備を継続しています。
孫の軽皇子が文武天皇となった時には、自身は初の太上天皇(上皇)となりました。
天皇をサポートしながら、法や文筆に才能のあった公卿・藤原不比等らに命じて日本史上初めての律令である「大宝律令」を701年に完成させたのです。
きょうのまとめ
今回は持統天皇によって作られた、国家としての基本、政治の中心地・藤原京と法となる飛鳥浄御原令について見てきました。
簡単にまとめると、
① 持統天皇の2大事業とは藤原京遷都と飛鳥浄御原令の制定
② 藤原京は長安をモデルとした条坊制の奈良にある都
③ 飛鳥浄御原令とは日本で最初の体系的に整備された行政法
ということになります。
国家の根幹を作り上げた持統天皇はこうしてその名を歴史に刻みました。
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