日本史最大のミステリーのひとつである、坂本龍馬の暗殺。
京都見廻組説・新選組説・薩摩藩説……色々な説があるものの、
犯人はいまだに判明していません。
そのうちの説のひとつに、
三菱の創業者・岩崎弥太郎の名が挙がっていることをご存知でしょうか。
真実はわかりませんが、岩崎弥太郎は確かに龍馬の暗殺によって、
利益を得た人物だと言えるのです。
そこで今回は、三菱誕生までの経緯について簡単にご紹介します。
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海援隊と関わりが深かった岩崎弥太郎
岩崎弥太郎は慶応3年(1867)、後藤象二郎(大政奉還に尽力し、明治新政府の参議を務めた人物)によって開成館長崎商会の主任に任命されます。
開成館長崎商会というのは土佐藩の組織で、通称・土佐商会とも呼ばれます。
土佐商会は欧米の商人を通じて、船舶や武器を輸入などを行っていました。
そこでの弥太郎の仕事のひとつが、海援隊の経理(会計)だったのです。
海援隊とはどんな組織だったのか
ここで、そもそも海援隊とはどんな組織だったのかを簡単に説明します。
海援隊の前身である亀山社中は、慶応元年(1865)に坂本龍馬によって設立されました。
亀山社中は日本初の商社と言われますが、私設の海軍としても機能していた組織です。
坂本龍馬は土佐藩出身でしたが、脱藩していた時代があります。
脱藩とは藩を出て、浪人となることです。
龍馬は脱藩をしたからこそ、活躍することができたと言えます。
その反面、脱藩は罪であり、時代によっては死刑になるほど重いものと考えられていました。
ですが龍馬はその罪を許され、亀山社中も「海援隊」として土佐藩の外郭機関となりました。
という経緯があり、岩崎弥太郎は海援隊の経理も担当することになったのです。
いろは丸事件も担当した弥太郎
龍馬のつくった海援隊の経理を担当していた岩崎弥太郎。
海援隊の隊士がお金を借りに来たりと、いろいろ大変だったようです。
中でも大きな仕事は、いろは丸事件の損害賠償の交渉だったといいます。
いろは丸とは、海援隊が伊予大洲藩から借りていた船のこと。
その船が紀州藩の船と衝突して沈没するという事件が起こりました。
いろは丸側にも過失があったのですが、龍馬たちは色んな手を尽くします。
そして弥太郎も粘り強く交渉し、最終的には紀州藩から多額の損害賠償金を得ることができました。
坂本龍馬暗殺後の海援隊
慶応3年(1867)、坂本龍馬は京都の近江屋で、何者かによって暗殺されました。
龍馬の死後、海援隊は解散、土佐商会も閉鎖されることになります。
九十九商会の設立
明治3年(1870)、土佐藩士たちによって「九十九商会」という組織が設立されました。
なぜなら、明治新政府が藩営事業を禁止しようとしていたからです。
そこで禁止される前に私商社をつくって、事業を引き継がせようと考えたのです。
設立当初、九十九商会の代表となったのが海援隊出身の土居市太郎、そして土佐商会の中川亀之助という人物でした。
一方、岩崎弥太郎は九十九商会の監督をする役目を、藩から命じられていました。
そして九十九商会には藩船が3隻、払い下げられることになります。
明治4年(1781)、廃藩置県が行われ、藩がなくなってしまいました。
それにより、岩崎弥太郎も土佐藩士としての立場を失ったわけですが、
後藤象二郎や板垣退助の説得により、九十九商会の経営を行うことになったのです。
三菱商会に改称
明治5年(1872)、九十九商会は三川商会と社名を変更します。
三川の由来は、幹部の名前が川田・石川・中川(亀之助)だったからだそうです。
しかし翌年3月、弥太郎は独裁体制を築き、社名も三菱商会と改称しました。
こうして岩崎弥太郎が経営権を握り、「三菱」が誕生したわけです。
このような経緯を見てみると、確かに龍馬が暗殺されたことによって、
(少し遠回りな気がしますが……)岩崎弥太郎は得をしたように思えますね。
きょうのまとめ
今回は三菱誕生の経緯について、簡単にご紹介しました。
岩崎弥太郎は、
② いろは丸に関して紀州藩と交渉を行い、多額の損害賠償金を得た
③ 土佐商会・海援隊がなくなったあとにつくられた九十九商会の経営者となった
④ 九十九商会で独裁体制を築き、三菱商会に名前を変えた
と言えます。
こちらのサイトでは他にも、岩崎弥太郎にまつわる記事をわかりやすく書いています。
より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね!
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