政府と敵対!田中正造はどう足尾銅山鉱毒事件に立ち向かった?

 

田中正造といえば、足尾銅山鉱毒事件。

反対に、足尾銅山鉱毒事件といえば田中正造。

このように、セットで覚えている方も多いと思います。

では具体的に、足尾銅山鉱毒事件とはどのようなものだったのでしょうか。

そして、それに対して田中正造はどのように立ち向かったのでしょうか。

足尾銅山鉱毒事件とは

足尾銅山とは、栃木県にある銅山のことです。

明治時代に古河市兵衛(ふるかわ・いちべえ)という人物が近代化し、産出量全国一の銅山へと発展させました。

しかしその反面、煙害や木材の乱伐が山林にダメージを与え、大洪水がたびたび発生することになります。

また有害物質を含んだ廃水を垂れ流すことで、渡良瀬(わたらせ)川流域の漁民・農民たちに甚大な被害を及ぼしました。

すなわち近代化と引き換えに、多くの犠牲を払うことになったのです。

そこで被害を受けた農民たちは、反対運動を始めました。

 

田中正造の働き

田中正造は、地元で起こったこれらの問題を解決するために立ち上がります。

しかしそれは、思った以上に大変な仕事だったのです。

政府に質問書を提出

衆議院議員を務めていた田中正造は、まず政府に鉱毒被害に関する質問書を提出します。

ですが、政府は問題を解決する姿勢を見せるどころか、冷ややかな対応を行いました。

なぜなら当時の産銅業は重要な外貨獲得産業として、政府が保護・育成を図っていたからです。

さらに被害と足尾銅山に因果関係があるとは考えられていなかったため(※)、当初は誰も田中の意見を取り合ってくれなかったとか。

※そこで田中正造は農科大学(現在の東京大学農学部)の助教授に調査を依頼し、因果関係を明らかにしました。

また分が悪いことに、農商務大臣・陸奥宗光の実子が古河市兵衛の養子になっていたのです。

そこで政府は問題を大きくしないため、被害農民と古河との間に示談交渉を締結させました。

それはわずかな補償と引き換えに、一切苦情は受け付けないとするものでした。

 

対政府鉱業停止運動を組織

かといって、被害はなくなるどころか拡大していきます。

そこで田中正造は、示談と日清戦争のために中断されていた反対運動を「 対政府鉱業停止運動 」として再組織しました。

そして被害農民たちが東京に押し寄せたことで、足尾銅山鉱毒問題は社会問題へと発展していきます。

すると、やっと政府は鉱毒調査会を設置し、古河には鉱毒予防工事命令、被害農民たちには免租処分としました。

しかしこれもうまくいかず、被害農民たちは再び東京へと向かうことにしましたが、

その途中、群馬県の川俣という場所で警官からの激しい弾圧を受けます(川俣事件)。

天皇へ直訴するも失敗

もう政治に期待することはできないと悟った田中正造。

厳しい被害農民たちの実情を訴えるため、田中は天皇に直訴(じきそ)を試みます。

当時、天皇に直訴するなどありえないことで、まさに命がけの行動でした。

黒の羽織・はかま姿の田中正造は直訴状を高く掲げ、明治天皇の乗る馬車に駆け寄ったのです。

しかし、警官に取り押さえられてしまい、直訴は失敗に終わります。

ところがこの行為により、反対運動は活性化。

政府も対応せざるを得ない状況となり、第二次鉱毒調査会を設置するに至りました。

きょうのまとめ

今回は足尾銅山鉱毒事件に対して、田中正造はどのように対応したのか簡単にご紹介しました。

① 足尾銅山鉱毒事件は、産業の近代化と引き換えに起こった悲劇だった

② 田中正造は当時の政府に質問書を提出するも、冷ややかな対応を受けた

③ 反対運動を行うも、弾圧を受けた

④ 天皇に直訴するも失敗したが、最終的には政府を動かした

こちらのサイトでは他にも、田中正造にまつわる記事をわかりやすく書いています。

さらに理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね!

 

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