『自分は金もいらなければ家もいらない。ただ女遊びが出来れば良いのだ。』
「英雄色を好む」といいますが、この人は群を抜いています。
この言葉を残したのは、初代内閣総理大臣を務めた伊藤博文。
今回は伊藤博文のめちゃくちゃな女性関係について、簡単にご紹介していきます。
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二人いた伊藤博文の奥さん
まずは伊藤博文の奥さんはどんな人だったのか、簡単にご紹介しましょう。
伊藤博文には奥さんが二人いました。
1人目の妻はすみ子といい、松門四天王の一人に数えられた入江九一の妹でした。
しかし伊藤は既婚者であるにもかかわらず、当時17歳の芸者・小梅との間に子をもうけ、すみ子と離縁します。
現代ならば、ゲス不倫とでも言われてしまうのでしょうか。
ですが、こんなことはまだまだ序の口。
梅子(小梅から改名)はそれから、伊藤の数々の女遊びを目の当たりにすることになります。
すごすぎ!伊藤博文伝説
今でこそ政治家の女性問題は命取りですが、
昔は妾が何人もいたなんてことは珍しくありませんでした。
ですが女遊びに関しては、伊藤博文の右に出る者はいないと言われていたそうです。
「ほうき」と呼ばれた理由
伊藤博文は千人の女性と関係を持ったことがあると、自分でも豪語していたとか。
そして付けられたあだ名は「ほうき」。
掃いて捨てるほど女がいたことから、そう呼ばれるようになったそうです。
やめられない芸者遊び
いかに伊藤博文の女遊びが派手だったのかを物語る伝説を、いくつかダイジェストでご紹介していきます。
どれもアウトなものばかりですが、そんな伊藤に対して文句をあまり言わなかったという妻・梅子は大したものです。
・まだ長州藩士の頃、イギリス留学で女遊びにお金を使いすぎ、危うく帰国させられそうになった
・高熱でうなされている時も、両脇に芸者を寝かせていた
・伊藤が相手をした芸者が帰る時、妻の梅子は土産を持たせた
・日清戦争の講和の途中、清国の代表・李鴻章が狙撃されたと報告を受けた時も芸者と過ごしていた
・総理を辞めた後、公然と愛人の芸者を連れて成田山へ
もし現代にこんな政治家がいたとしたら・・・・・・マスコミや世論によってボコボコにされるでしょうね。
岩倉具視の娘だろうが人妻だろうが関係ない
伊藤が手を出したのは、芸者だけではありませんでした。
その一人が戸田極子、鹿鳴館の華とも呼ばれていた女性でした。
極子は岩倉具視の娘で、旧大垣藩主の戸田氏共伯爵に嫁いでいた”人妻”です。
そんな極子を誘い出したということがマスコミにバレ、大騒動になったようです。
しかもその後、極子の夫は異例の出世を果たしたそうで、
伊藤が権力を使って問題を鎮静化したのではないかと非難されることになりました。
明治天皇から注意されても気にしない
このように当時から伊藤の女好きは超有名で、彼のゴシップは新聞を連日賑わせていたようです。
そしてそれが明治天皇の耳にも入ってしまい、伊藤は天皇から直々に注意を受けたといいます。
すると、伊藤はこう答えたそうです。
天皇相手に居直るなんて、さすがです。
清々しさすら感じてしまいますが、現代の職場で上司にこのような発言をしたら大問題になります。
(噂を聞く方はおもしろいと思いますが)
あくまでも偉人のエピソードですので、決してマネしないようにしましょう。
(伝説を作りたいのであれば別ですけど)
きょうのまとめ
今回は、某週刊誌もびっくりの伊藤博文の女性問題についてご紹介しました。
① 伊藤博文は1人目の奥さんと、不倫が原因で離婚していた
② 「ほうき」とあだ名が付くほど、伊藤博文の女性関係は派手だった
③ 明治天皇から注意を受けても居直った
こちらのサイトでは他にも、伊藤博文に関する(ちゃんとした)記事をわかりやすく書いています。
ご興味をお持ちの方は、ぜひご覧になってくださいね!
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博文は公許の芸人どもを公然とよぶまでです