「板垣死すとも自由は死せず。」
こちらの超有名な名言、板垣退助が実際に発したものではないことをご存じでしょうか。
今回はなぜ板垣が言ったことになったのか、
そして偉人たちが襲われたときに残した言葉についてご紹介していきます。
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板垣人気に火をつけた名言
板垣退助といえば自由民権運動。
明治十五(1882)年4月6日、板垣は岐阜の金華山の麓にある中教院で、懇親会に出席していました。
当時、自由党の総理を務めていた板垣は党の支持基盤を拡げるため、精力的に全国へと遊説を行っていたのです。
板垣退助暗殺未遂事件
大勢の観客の前で二時間にわたる演説を行った板垣。
疲れていたため、懇親会が終わる前に席を立ち、一人で宿へと向かったそうです。
そして入口を出た瞬間、短刀を持った男に右胸を刺されました。
板垣は男ともみ合いになりましたが、騒ぎを聞きつけた関係者によってなんとか命は落とさずに済んだということです。
本当は誰の言葉だったのか?
板垣は襲われたとき、
といった名台詞を吐いた。
当時のマスコミはそう、大々的に報じました。
ですが、板垣はこの言葉を発していないそうです。
後に本人が当時を振り返り、
「声も出なかった」
と書き残しています。
ということは、マスコミによるでっち上げだったのでしょうか?
一説によると、襲われた板垣を助けた内藤魯一の言葉ではないかといわれているそうです。
なんでも内藤は、「本当は自分が言った言葉だが板垣が言ったことにしてくれ。」とマスコミに伝えたんだとか。
板垣の言葉となったおかげで、板垣の人気は高まり、彼は自由民権の神となりました。
もし内藤魯一の証言が本当であれば、しめしめといったところでしょうか。
偉人の言葉~襲われたとき~
さて、このように日本国内でも戦前くらいまでは、有名な政治家が襲撃・暗殺されるというのはよくあることでした。
では襲われた偉人たちは、そのときどんな言葉を残したのでしょうか。
板垣に匹敵するような言葉はないのか、気になったので調べてみることにしました。
伊藤博文
ハルビン駅で暗殺された伊藤博文(1841~1909)の最期の言葉はこちらです。
銃弾を撃ち込まれ、瀕死の状態となった伊藤。
撃ったのは韓国人だと知ると、こう言ったといわれています。
当時の日本政府内には、韓国を併合してしまおうという勢力がありました。
伊藤はというと、むしろ併合に否定的。
そんな俺のこと撃つなんてまったくバカだねぇ~といったニュアンスとして捉えてださいね。
犬養毅
五・一五事件で暗殺された犬養毅(1855~1932)。
彼が撃たれる前に残した名言は有名ですよね。
話せばわかる
しかし「問答無用!」と青年将校は言い放ち、銃の引き金を引きました。
ですが犬養毅はこのときすぐに死亡したわけではなく、数時間は生きていたそうです。
その間もずっと、さっきのやつらを連れてこい、話して聞かせてやるということを繰り返していたそうです。
おまけ?原敬
実際には声も出なかったという板垣退助と通ずるものがあるのが、「平民宰相」と呼ばれた原敬(1856〜1921)です。
原敬は東京駅で襲われました。
そのとき、原敬はどういった言葉を残したかというと、
・・・(無言)
犯人から、ぶつかるようにして胸を刺されたという原はほぼ即死。
最期の言葉を残すことすらできなかったようです。
他にも襲撃された偉人の最期の言葉を調べてみたのですが、むしろ残せなかった人の方が多い印象を受けました。
きょうのまとめ
今回は偉人たちが襲われたときに残した言葉をご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。
② あの名言を実際に言ったのは内藤魯一という説がある
③ 襲われた際、最期の言葉も残せずに亡くなった偉人も多い
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ご興味をお持ちの方は、ぜひご覧になってくださいね!
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