板垣退助が自由党結成までにつくった政治団体をまとめてみた

 

板垣退助がつくったことで知られている自由党。

ですが板垣は自由党を結成する前にも、いくつかの政治団体をつくっていました。

なかなかややこしいので、今回はそれらを簡単にまとめてみました。

日本初の政党・愛国公党

1873年、政府内でとある対立が起こりました。

武力を使ってでも韓国を開国させるべきだ(=征韓論)と主張する征韓派(せいかんは)と、

そんなことよりも国内の政治を優先させようとする内治派(ないちは)の戦いです。

下野した者たちによって結成

征韓派は西郷隆盛や板垣退助ら。

それに対する内治派は、大久保利通や木戸孝允たちでした。

結局征韓派が敗れ、600人にも上る参議や官僚たちが一斉に下野(げや)しました。

これを明治六年の政変といいます。

その翌年である1874年1月、板垣退助とともに参議を辞した江藤新平、

後藤象二郎(しょうじろう)、副島種臣(そえじま・たねおみ)に由利公正(ゆり・きみまさ)、

小室信夫(こむろ・しのぶ)、古沢滋(しげる)らが加わり、愛国公党が東京で結成されました。

佐賀の乱で解体

この愛国公党は、日本で初めての政党でした。

学校の教科書には、板垣退助「たち」が国会開設を訴えた民撰議院設立建白書を提出したと書いてあったと思います。

実はこれは古沢が起草したもので、愛国公党が提出したものだったのですね。

ですが江藤新平が佐賀の乱※に参加したことにより、愛国公党はわずかひと月で解体してしまいます。

佐賀の乱: 征韓論を主張する人々が、江藤新平を擁(よう)して起こした政府に対する反乱のことです。1万2千人が蜂起(ほうき)したといわれています。この結果、江藤新平は刑死しました。

自由民権運動の中心・立志社

このように愛国公党が解体してしまった1874年、

板垣が故郷の土佐に戻ってつくったのが立志社です。

士族が中心となって結成され、参加した人物としては植木枝盛(えもり)・片岡健吉・林有造(ゆうぞう)らがいます。

短命に終わった愛国公党に対して、こちらの立志社は1883年まで存続しています。

自由民権運動の中心的存在であり、このあと説明する愛国社の母体となるなど、重要な役割を果たした政社です。

愛国社と国会期成同盟

1875年、立志社を母体として、全国の有志たちにより大阪で結成されたのが愛国社です。

愛国社は板垣が政府に復帰した後、いったんは事実上解散しています。

しかし1878年に再興され、1880年には国会期成同盟と名前を変えます。

当初は士族中心でしたが、再興後は豪農層も参加するようになりました。

1881年には国会開設請願書※を太政官・元老院に提出しようとしますが、受理されませんでした。

8万7千人の署名が集まったといいます。

自由党の結成

1881年、この国会期成同盟が中核となり、板垣退助を総理とする自由党が結成されます。

自由党はフランス流の急進論を主張して、一院制や主権在民を訴えました。

全国で支持者を増やした自由党ですが、政府からの弾圧や党内の抗争などもあって1884年、解党に追い込まれます。

しかし1890年、大井憲太郎たちが立憲自由党を結成、翌年には自由党と改称しています。

そして新しい自由党の総理として、再び板垣が迎えられることになったのでした。

きょうのまとめ

今回は板垣退助がつくった政治団体についてまとめましたが、いかがでしたでしょうか。

① 日本初の政党・愛国公党はわずか1カ月で解体した

② 板垣退助が土佐で設立した立志社は、自由民権運動の中心的存在となった

③ 愛国社が改称した国会期成同盟は、自由党の中核となった

④ 自由党は一度解党していた

こちらのサイトでは、他にも板垣退助に関する記事をわかりやすく書いています。

ご興味のある方は、ぜひご覧になってくださいね!










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