堀田正睦とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

幕末期、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスの来航に伴い、日米修好通商条約の交渉を担った

老中首座・堀田正睦ほったまさよし

幕府の一大事を巡る対立に巻き込まれ、悲劇の道を辿った指導者です。

そう、幕府においてはこんな感じですが、彼の藩での活躍を見てみると優秀であることも、またたしか。

堀田正睦とはどんな人物なのか、今回はその生涯に迫りましょう。
 

堀田正睦はどんな人?

プロフィール
堀田正睦

堀田正睦

  • 出身地:江戸・佐倉藩邸
  • 生年月日:1810年8月30日
  • 死亡年月日:1864年4月26日(享年55歳)
  • 幕末の時代、日米修好通商条約の交渉にあたった老中首座。将軍継嗣問題を巡って大老・井伊直弼いいなおすけと対立し、失脚させられた。

 

堀田正睦 年表

年表

西暦(年齢)

1810年(1歳)江戸藩邸にて、第3代佐倉藩主・堀田正時の次男として生まれる。

1811年(2歳)父・正時が死没。従兄の堀田正愛まさちかが家督を相続し、正睦はその養子となる。

1824年(15歳)正愛の病気を理由に、第5代佐倉藩主に就任。

1829年(20歳)幕府にて奏者番そうじゃばんに任じられる(将軍への献上品の管理、将軍から家臣へ授けるものがある際の伝達を担う職)。

1834年(25歳)幕府にて寺社奉行に任じられる(寺社や僧侶、神職などの取り締まりを行う職)。

1837年(28歳)大阪城代(将軍に代わり大阪城を預かる職)を経て、江戸城西の丸老中に任じられる。

1841年(32歳)老中首座・水野忠邦の推挙から本丸老中に任じられる(幕政の最高機関)。

1843年(34歳)水野忠邦の失脚に伴い、難を逃れるために老中を辞任。

1855年(46歳)老中首座・阿部正弘からの推薦により、後釜として老中首座に就任。

1858年(49歳)日米修好通商条約調印に際し、孝明天皇の勅許を得るため上洛するも却下される。さらに将軍継嗣問題を巡って敵対した大老・井伊直弼により、老中首座の職を免じられる。

1859年(50歳)井伊直弼の命令で四男の堀田正倫まさともに家督を譲り隠居。

1862年(53歳)朝廷、幕府から佐倉城での蟄居ちっきょ(謹慎処分)を命じられる。

1864年(55歳)3月21日、佐倉城三の丸・松山御殿にて死没。

 

第5代佐倉藩主として

1810年、堀田正睦は江戸・佐倉藩邸にて、第3代佐倉藩主・堀田正時の次男として生を受けます。

(※佐倉藩:現在の千葉県佐倉市)

初名は正篤まさひろと付けられていますが、幕臣となったのち、13代将軍・徳川家定の正室・篤姫と字が被ることを避けるため、正睦と改めることとなります。

正睦は生まれた翌年に父を亡くしており、このとき藩主の座は正睦の従兄・堀田正愛まさちかに譲られます。

ただ正愛はそもそも、藩主は正時の子が継ぐべきだと考えていたため、正睦を養子とし、次期藩主として育てることにするのです。

一筋縄ではいかなかった藩主就任

1824年、正睦が15歳のころ、正愛の病気を理由に藩主の座が譲られるタイミングがやってきます。

しかし正愛の重臣・金井右善うぜんは正睦の藩主就任をよく思っておらず、このとき近江堅田藩かたたはん主・堀田正敦の子を佐倉藩主に擁立しようとします。

金井は佐倉藩士のなかでも幕府との強いコネクションをもつ人物で、その後ろ盾を得て、藩政の主導権を握っていました。

いくら正愛が次期藩主にと思っていても、金井が認めなければ正睦が藩主になることはできない…

佐倉藩の権力関係はそんな状況にあったのです。

ただ、金井の独断によるこの藩主継承は、その他の藩士たちの反感を買うことになります。

さらに堀田正敦が佐倉藩に養子を出すことを拒否したため、完全に頓挫。

こうして正睦は第5代佐倉藩主として、知行11万石を預かる身となるのです。

ちなみにこのとき金井に反発した藩士の中核であった渡辺弥一兵衛は正睦の側近となり、以後長らくその政策を支えていくこととなります。

蘭癖藩主・堀田正睦の藩政改革

正睦が藩主に就任してからもしばらく、藩の実権は金井のもとにありました。

藩主になったとはいえ、正睦は若年だったため、権威関係をくつがえすのは容易くはなかったようです。

しかし1833年、正睦が24歳のころに金井は死没。

これをもって実権を手にした正睦は、荒れ果てていた佐倉藩を立て直すべく、藩政改革に着手していきます。

正睦の行った政策は

・学制の推進(藩校のカリキュラム見直し、新しい学校の創設など)

・農耕の推進(豪農層を指導者にし、各農民の農地運営を見直す)

・藩士の家計援助

などなど。

このうち学制については特に、蘭学に傾倒し、他大名からは蘭癖らんぺきと皮肉を言われるようなことも。

(※蘭癖:蘭学が大好きな人のこと)

長崎で蘭学を学んだ蘭方医・佐藤泰然たいぜんを呼び寄せて開いた「佐倉順天堂」は、関東随一の蘭学の聖地にまで育ちます。

なんでも当時、蘭学に関しては「西の長崎、東の佐倉」などといわれていたといいますよ。

ちなみに佐倉順天堂は、順天堂大学の前身となった学校です。

 

幕府老中として

藩政改革を推し進める一方で、正睦は幕府においても重用されるようになっていきます。

・奏者番

・寺社奉行

・大坂城代

を経て、1841年、32歳のころ、老中首座・水野忠邦の推挙により、老中に任じられ、晴れて幕政の最高機関に。

しかし…正睦の老中としてのキャリアはそう順調にはいかなかったのです。

早々の失脚

正睦が老中に就任したころというのは、水野忠邦「天保の改革」に着手し始めた時期でした。

この政策は貧窮していた幕府の財政を立て直すためのものでしたが、各藩主の反対に遭い、失敗に終わってしまうのです。

水野が掲げた上知令あげちれいという案が、結果として諸藩民を圧迫するものだったんですよね。

(※上知令:幕府の財政を潤すための、藩主たちの領地入れ替え。ほとんどの藩は財政難にあったため、藩民に借金をしている藩主が多く、とても応じられる状況ではなかった。)

これに加え、水野は家臣から賄賂を受け取るなどの不正もしており、1843年、老中・阿部正弘によって免職されてしまいます。

天保の改革に関わっていた正睦はこの状況を見て、自ら老中を辞するのです。

素早い判断で身を引いたため、正睦は罪にこそ問われませんでした。

しかし就任から2年で辞任とは、運がなかったとしか…。

老中首座として返り咲くも…

水野忠邦の巻き添えを食らい、幕政を退いた正睦は、そこから10年余り、再び藩政に尽力していきます。

そして46歳を迎えた1855年のこと、また幕政に関われるチャンスが巡ってくるのです。

このとき、幕政のトップである老中首座を務めていたのは阿部正弘でした。

阿部はさまざまな藩主の意見を取り入れて幕政を動かしていく、バランス感覚に優れた指導者です。

しかし、このころからその采配にほころびが見え始めるのです。

1853年のペリー来航に伴い、阿部は日米和親条約の締結を推し進めました。

当時、海防掛かいぼうがかり参与を務めていた徳川斉昭なりあきは熱心な攘夷派じょういはだったため、これに激怒し、

(※攘夷…外国のものを日本から追い払う思想のこと)

「そんなことするなら海防掛やめたるわ!」

みたいなことを言い出します。

阿部はこれを鎮めるため、条約締結に関わった松平乗全まつだいらのりやす松平忠優まつだいらただますを免職。

すると今度は、免職されたふたりが開国派だったことから、開国に賛成していた幕臣・井伊直弼いいなおすけの反感を買ってしまうのです。

対立を恐れた阿部は老中首座を辞することに。

このとき新たな老中首座として取り沙汰されたのが、堀田正睦でした。

こうして正睦は幕政を退いた身から一転、一気に幕政のトップを務めることになるのです。

ただ、このとき与えられた老中首座という官職は名ばかり。

その実権は1857年に阿部が没するまで、阿部が握り続けることとなります。

つまり正睦は阿部が幕府内での衝突を避けたいがための、カモフラージュに使われただけなのです。

なんだかなあ…。

 

日米修好通商条約調印を巡って

阿部正弘が没した翌年の1858年、正睦はアメリカ総領事タウンゼント・ハリスから「日米修好通商条約」の調印を迫られます。

蘭学を推進していたことからもわかるように、正睦は

「海外の文化をどんどん取り入れて日本を強くしていくべきだ」

という考えの持ち主です。

そのため条約の受け入れにも賛成でした。

貿易に関税を設けることで、幕府の財政が潤うという算段もありました(実はけっこうな不平等条約なのですが…)。

ただ、これによって利益を得るのは幕府だけで、諸藩にとっては関係のない話。

攘夷派も勢いを増すなか、条約を締結するという正睦の判断は猛反対に遭ってしまいます。

孝明天皇の勅許を得られず

条約締結に対する反対の声のなかには、

「朝廷の許可も得ず、幕府の独断で条約を結ぶのはさすがにまずいのでは…?」

という意見がありました。

正睦はこの意見を取り入れ、天皇の勅許をもらいにいくことにします。

「勅許を取ってしまえば、もう誰も文句言えないよね!」

という具合です。

正睦は6万両の資金を用意し、川路聖謨としあきら、岩瀬忠震ただなりらを伴って上洛。

当時、朝廷は財政難にあえいでおり、正睦はお金さえ出せば、許しを得ることも容易いと考えていたのでした。

しかし予想に反して天皇からの勅許は得られず、正睦は手ぶらで江戸へと帰ることとなってしまいます。

実のところ、孝明天皇は攘夷思想の持ち主であり、

「いくらお金を積まれても絶対に条約締結は認めない!」

という言い分でした。

それに加え、攘夷派の幕臣・徳川斉昭が事前に朝廷工作を行っており、攘夷派の公家衆88人が座り込みを行うデモまで勃発。

この状況を前にして、正睦は引き下がるほかなかったのです。

将軍継嗣問題の浮上

徳川慶喜

正睦が天皇の勅許を得られず、頭を悩ませていたそんな最中、幕府内には新たな問題が浮上してきていました。

13代将軍・徳川家定が病に倒れ、幕府は次期将軍を選ばなければいけない局面に立たされていたのです。

家定には子がおらず、家督は他家から養子をとる形で相続されることに。

このとき取り沙汰されたのが、紀伊藩主・徳川慶福とくがわよしとみと、御三卿ごさんきょう一橋慶喜ひとつばしよしのぶでした。

(※御三卿;将軍の跡取りが不在の際、養子を提供する役目を担った家系)

幕府は

・南紀派:将軍家の親戚筋にあたる慶福を擁立

・一橋派:年功や能力で勝る慶喜を擁立

という形に別れ、対立することになります。

…と、この将軍継嗣けいし問題を天皇の勅許へとつなげられないかと考えたのが、正睦でした。

候補に挙げられた一橋慶喜は、攘夷派である徳川家斉の七男で、一橋家に養子に出された人物。

正睦は彼を将軍に擁立し、さらに攘夷派の松平慶永を大老に任じることで、天皇の機嫌を取ろうとするのです。

(※大老…将軍の側近としてアドバイスなどを行う名誉職)

しかしこの作戦に黙っていなかったのが井伊直弼でした。

大老・井伊直弼との対立

井伊直弼は、

井伊直弼
将軍を継ぐのは徳川宗家の血筋に近い慶福であるべきだ

という考えの持ち主。

さらに開国派だったため、突然攘夷派に寝返ろうとした正睦と真っ向から対立することとなってしまうのです。

井伊は正睦が江戸を離れている隙をつき、慶福を14代将軍に擁立。

そして自身が大老の職について主導権を握り、なんと勅許も得ないまま日米修好通商条約を締結してしまうのです!

もちろんこの行為は攘夷派を始めとする幕臣たちから大ブーイングを受けますが、井伊は異を唱えた者を片っ端から弾圧。

そして勅許を得ずに条約を結んだ罪は、交渉の責任者である正睦にあるとし、正睦を免職してしまうのです。

これが「安政の大獄」

井伊直弼の残虐さを世に知らしめた一大事件です。

井伊直弼は正睦の老中再任も考えていた?

ただ、井伊は一度正睦を免職したものの、このあと老中への再任を考えていたという話もあります。

その証拠に、他の大名に蟄居ちっきょ(謹慎処分)を命じたりするなか、正睦にはそういった処分を与えていなかったんですよね。

家督を四男の正倫まさともに譲らせたりもしていますが、それもとりあえずの処置であったと考えられます。

対立はしたものの、やはり井伊は、正睦の能力が幕府に必要だと考えていたのでしょうか?

しかし井伊が「桜田門外の変」で暗殺されると、正睦は朝廷と幕府の両方から蟄居を言い渡されることに。

井伊に目をかけられていたことで、結局は朝廷にも幕府にも敬遠されてしまうことになるわけですね。

このようにして正睦は政治生命を断たれ、1864年、佐倉城内にて、失意のうちにその生涯を終えるのです。

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きょうのまとめ

幕府にて、最高権力者である老中首座にまで上り詰めた堀田正睦。

日米修好通商条約の交渉に立ち向かった点を踏まえ、幕末の要所を担った人物であったことは間違いありません。

でも…その人生はなんだかとことん踏んだり蹴ったり。

佐倉藩での名君ぶりも、国全体の危機に際しては通用しなかったようです。

最後に今回のまとめをしておきましょう。

① 堀田正睦は蘭学を推進した蘭癖藩主。蘭方医・佐藤泰然などを迎え入れることで、佐倉藩を蘭学の聖地へと育て上げた。

② 32歳で老中に就任するも、水野忠邦の巻き添えを食らって失脚。阿部正弘に取り立てられて老中首座になった際も、しばらくは名ばかり官職だった。

③ 日米修好通商条約の調印を多数の幕臣に反対され、天皇の勅許を得ようとするも失敗する。

④ 将軍継嗣問題に際し、天皇の機嫌を取るために攘夷派を支持。開国派の井伊直弼と対立することとなる。最終的には井伊が勅許を得ずに条約を締結し、その罪を着せられて政治生命を断たれる。

堀田正睦は失敗の多い人物でしたが、これはほとんど、運に恵まれなかっただけの話。

幕末という動乱の時代に生まれていなければ、もっと目覚ましい活躍が見られていたかもしれません。

 
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