北条政子の演説は有名です。
鎌倉時代に、いえそれ以前のいずれの時代にも、
一人の女性が多くの武士たちの目の前で演説をしたことはありません。
大の男たちが一人の女の言葉に聞き入るなどということは前代未聞の出来事でした。
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政子の演説に至る経緯
源頼朝の息子たち2代将軍頼家と3代将軍実朝の二人が暗殺で亡くなり、
源氏の血は途絶えます。
もともと源氏は天皇家から源の姓をもらって降下した、天皇に繋がる家系。
しかしその血が絶えてしまえば、もう後鳥羽上皇には天皇家に関わりのなくなった武家政権に遠慮することはありません。
今がチャンスとばかりにもう一度朝廷に権力を取り戻そうと挙兵したのです。
上皇には自信がありました。
なぜなら、かつて天皇家に逆らった者が存在したことなどないのです。
こうして北条氏は武家政権を失う危機に直面します。
実際のところ、御家人たちは天皇に逆らうことを不安に思っていました。
そこで政子が御家人たちにむかって結束をよびかけ、鼓舞するために演説を行ったのです。
政子は既にその時点で頼朝の妻として、頼家や実朝の母として、夫頼朝が立ち上げた鎌倉幕府の存続のために尽力してきたことを認められていました。
男ばかりの御家人たちがたった一人の女性の言葉に聞き入ることなど前代未聞のこと。
でも政子にそうする力があったのは、それまでの彼女の身内を切り捨ててでも鎌倉幕府と武士の権威を守ろうとする姿があったからでした。
演説と御家人たち
北条政子は自分の屋敷の庭に溢れんばかりに集まった御家人たちを前にして
「最期の詞」として演説します。
それは彼女の死を覚悟した遺言のようなものでした。
政子のことば
鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』には政子の演説内容が記録されています。
現代語訳すると以下のような意味になります。
御家人たちの反応
彼女の飛ばしたゲキにより、御家人たちは感動し、涙を流し、発憤して再度鎌倉幕府への忠誠を誓います。
そう、演説は大成功でした。
そして、この演説の成功で幕府は存続の危機を脱する道が開けました。
尼将軍・政子はたった一度の演説で、状況を大逆転させたのでした。
その後の鎌倉軍と結果
その後の鎌倉軍の動きは素早く、演説のすぐ後にたった18騎が京へむかって出撃して行きました。
軍は次々と仲間を増やしながらふくれあがり、北条泰時を総大将とした幕府軍は最終的に19万騎の大軍となって京に押し寄せます。
後鳥羽上皇は自分が発した院宣(上皇が発する文書)の効果に自信を持っていましたが、予想を反する幕府軍の勢いに狼狽。
結局京は幕府軍によって占領され後鳥羽上皇は院宣を取り下げて降伏し、隠岐へと流されました。
これにて承久の乱は幕府軍の勝利で終わったのです。
おわりに
日本は海外諸国と比べると、
演説下手のお国柄で演説そのものに力を持った例はまずありません。
その中にあってこの尼将軍・北条政子のスピーチは、
その結果も含めて日本史上最高の演説と言えるでしょう。
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これは私の最期のことばです。
源頼朝殿が、平家一門の朝敵を滅ぼし、ここ、関東にわれわれの幕府を作りました。
それ以来、皆の官位は上がり、収入も増えましたね。
平家に仕えていた時のように京で無理に働かされることもなく、幸せに暮らせるようになりました。
それもこれもすべては頼朝殿のお陰です。
その恩は山よりも高く海よりも深い。
しかし、今、その恩を忘れ、天皇や上皇をたぶらかす者があらわれ、朝廷より理不尽な幕府討伐命令が出されました。
「名こそ惜しむ者」は、朝廷側についた藤原秀康・三浦胤義らを早々に討ち取り、3代にわたる源氏将軍の恩に報いてください。
さあ、もし、この中に朝廷側につこうと言う者がいるのなら、まずこの私を殺して鎌倉中を焼き尽くしてから京都へ行きなさい