原敬内閣は普通選挙に反対!選挙法改正では何を変えた?

 

今の日本では、18歳以上であれば性別を問わず、

誰もが選挙権を持つことができます。

しかしご存じの通り、

いくつかの段階を経て今のようになったわけです。

今回は原敬内閣普通選挙について、

選挙法改正の内容を交えながらご紹介していきますね。

 

選挙法の改正を行った原敬内閣

原敬

出典:Wikipedia

原敬は内閣総理大臣に就任すると、衆議院議員選挙法の改正に着手しました。

具体的には小選挙区制の導入と、

選挙権の納税資格の引き下げです。

小選挙区制の導入

原敬が総理に就任したとき、立憲政友会は議会で第1党ではありましたが、絶対多数には届いていませんでした。

そこで考えたのが、小選挙区制の導入です。

小選挙区制とは、一つの選挙区から一人の当選者を出す仕組みのこと。

これに対して大選挙区制とは、一つの選挙区から複数の当選者を出す仕組みのことです。

 

大選挙区ではお金を持っている党が勝ちやすいのに対し、

小選挙区を導入すれば、最も支持された党が圧勝することに気がついたのです。

納税資格の引き下げ

また小選挙区制の導入と同時に行われたのが、選挙権の納税資格の引き下げです。

それまでは、10円以上の直接国税を納める25歳以上の男性にのみ、選挙権がありました。

ですが原敬内閣によって、10円を3円まで引き下げる案が提出されたのです。

これにより有権者数は、146万人から306万人へと倍増(人口比2.2%から5.5%)。

これらの内容が盛り込まれた改正選挙法は1919年3月に成立し、その年の5月に公布されました。

 

「平民宰相」なのに?普通選挙には反対

とはいえ、原敬内閣による選挙法の改正では、普通選挙は実現されませんでした。

普通選挙とは一定の年齢に達すれば、誰もに選挙権が認められる選挙のことです。

有権者が増えたとはいえ、日本国民のわずか5%しか選挙に行けないのが現実でした。

普通選挙を巡る野党との戦い

そこで1919年12月の議会で、野党の憲政会などが普通選挙実施を訴えます。

民衆からの理解を得やすい「普通選挙」を、反政府運動に利用したというわけです。

これは実に良い戦略で、翌年2月の東京では、普通選挙の実施を求める数万人規模のデモが行われました。

反対した理由

こういった世の流れに対し、原敬は「普通選挙は時期尚早」という立場を明らかにします。

なぜなら原は、今すぐに普通選挙を導入すれば、階級制度は無視され、世の中が混乱すると考えたのです。

そこで原敬内閣がとった行動は、衆議院の解散でした。

大正9年(1920)5月に行われた選挙では、立憲政友会は議員定数464のうち、278議席を獲得。

絶対多数となった、与党の圧勝に終わりました。

宿敵・加藤高明

結局、普通選挙法が施行されたのは、それから5年後加藤高明内閣のとき。

加藤高明は憲政会を率い、原敬の宿敵であった人物です。

とはいっても、選挙権が認められたのは25歳以上の男性だけ。

女性に選挙権が認められたのは、戦後の1945年のことでした。

 

きょうのまとめ

今回は原敬内閣と選挙法について、簡単にまとめました。

① 原敬内閣は小選挙区制の導入と納税資格の引き下げを盛り込んだ選挙法を成立させた

② 原敬は普通選挙を今すぐに導入することは危険であると考えていた

③ 普通選挙法(男性のみ)を成立させたのは、原の宿敵・加藤高明内閣だった

こちらのサイトでは他にも、原敬にまつわる記事をわかりやすく書いています。

より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。

原敬の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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