奈良時代の僧・行基の名を耳にしたことはありますか?
あの奈良の大仏の造立に関わりのある人だと知れば少し親しみが湧くでしょうか。
さて、行基とは一体どんな人物だったでしょう。
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行基はどんな人?
- 出身地:河内国(現在の大阪府堺市)
- 生年月日:668年
- 死亡年月日:749年2月2日(享年82歳)
- 奈良時代に諸国を巡って布教と社会事業を行い、民衆に絶大なる支持を受けた法相宗の僧。聖武天皇に請われて奈良の大仏造立に協力した
行基年表
西暦(年齢)
668年(1歳)河内国(堺)にて誕生
682年(15歳)大官大寺にて出家
691年(24歳)授戒し、名を行基と改め、法相宗を学ぶ。このころより道昭に師事する。やがて山林修行に入る
710(43歳)平城京に都が移る。過酷な労働に苦しむ人々の救済活動を行い始める
717年(50歳)僧尼令に違反するとして朝廷が行基の布教活動を禁止し弾圧
737年(70歳)天然痘が大流行する
743年(76歳)聖武天皇の依頼により行基が東大寺大仏造営の勧進に起用される
745年(78歳)朝廷より行基に日本初の仏教界最高位「大僧正」が贈られる
749年(82歳)大仏造営中に喜光寺にて入滅(死没)
行基の生涯
仏教の民間布教や社会事業に打ち込み、奈良の大仏造立にも奔走した行基の生涯をご紹介します。
行基誕生、布教へ
668年、河内国(現在の大阪府東部)で行基は誕生しました。行基はのちの法名であり、本名は貞知でした。
父の名は高志才知、母は蜂田古爾比売。
両親とも百済からの渡来系氏族の出身です。
682年、15歳で藤原京にあった大官大寺で出家し、法行と称します。
24歳で受戒したあと、飛鳥寺・薬師寺に入って法相宗を学び、法号を行基と改めました。
唐で玄奘三蔵(西遊記の三蔵法師のモデルになった人物)の元で修行したと言われる名僧・道昭が行基の師です。
井戸、渡し、港などの開発、架橋事業などに熱心な人物でした。
行基は師の影響を受けながら、経典学習や山林での修行も行います。
704年、行基は故郷に戻って家原寺で母親と共に暮し、母の死後は諸国を行脚して民間布教や社会事業を始めました。
社会事業と朝廷の弾圧
行基が諸国を巡る間に、彼を慕う人々が彼の周囲に集まり、僧侶や民間人が混ざった知識結と呼ばれる宗教集団が形成されました。
彼らは近畿地方を中心にしてさまざまな社会事業を行います。
当時の日本は、疫病や飢饉に悩まされ、また民衆は労役や重い税に苦しんでいたため、行基は布教しながら
・道の整備
・架橋
・治水工事
・寺院建立
・布施屋(無料の簡易宿泊所)設置
などを行い、人々の暮しの向上を図りました。
しかし、戸外で人々を集めて教えを説く行基の活動は、717年に発令された僧尼令に違反していました。
民衆を惑わす妖僧と考えられ「小僧」などと呼ばれた行基は、国から弾圧されたのです。
朝廷との協力関係、大仏建立から死没
それでも行基は苦しむ人々のために活動を続け、その規模は大きくなっていきました。
『続日本紀』に「行基菩薩」と記録されたことから、彼が民衆に慕われていたことが分かります。
こうして、貧しい者や僧侶だけではなく、豪族などの裕福層も彼の社会事業に協力し、彼らの活動規模は、朝廷も無視できないほどになりました。
743年、聖武天皇は疫病、饑饉などの社会不安を鎮める目的で「盧舎那仏造営の詔」を発令。
奈良の大仏を作ることを決めました。
それには民衆の協力も必要です。
そこで、市民に絶大な人気のある行基を実質上の責任者として招聘したのです。
行基は全国を行脚して勧進(寄付)を募り、仏造立国家プロジェクトが動き始めました。
弾圧される身から一転して国家政策を任された行基。
日本初の「大僧正」に任じられ、官僧のトップとなりました。
しかし彼は、大仏開眼の3年前、749年に喜光寺にて亡くなったのです。
その後「勧進を行った行基」は、東大寺の「四聖」の一人として(他3名は、本願・聖武天皇、開基・良辨、導師・菩提仙那)尊ばれています。
行基の社会事業
それまでの「僧侶が、仏による護国救済を寺院でひたすら祈る」スタイルと違い、寺院の外で社会事業を行いながら布教活動した行基は異端視されました。
行基はなぜ社会事業を行ったのか
行基は、仏教の教えを易しい言葉で民衆に説き、罪悪や福徳について教え諭して、民からの現世への要求に積極的に耳を傾けました。
そして49もの寺院を作り、それらを拠点に地域に役立つ施設の整備などの社会事業に尽くしたのです。
なぜそんなことをしたのでしょうか。
それは、行基の「利他行」の精神でした。
他人の苦しみを取り除き、他人が幸せになることこそ自分の幸せになるという考えです。
当時の民衆は疫病や飢饉に悩まされ、律令制の下で租税の納付や労役の義務を果たすために、都との間を往復するのが大変な負担となっていました。
そこで、行基は利他行の心で飢えや病で行き倒れる者たちを救うために布施屋という福祉施設を建て、食事や宿泊を提供し民衆の救済を図ったのです。
豊かな者には蓄財することも認めてやり、仕事に励みながら功徳を積み、社会に還元していく行動の「利益」を教えました。
橋が架かり、治水工事のおかげで生活が安定することを理解した多くの豪族も行基の教えを受け入れます。
彼らの資本提供のもと、行基は民衆を率いてさらなる土木事業を行ったのです。
弾圧していた朝廷が行基を受け入れたのはなぜ?
これまでの仏教と違った活動を行う行基に対して、当初は警戒し、弾圧していた朝廷。
やがて彼の行動が朝廷に対して大きな害をもたらすものではないことがわかります。
また、土地を開墾すれば一定期間の私有が認められるという土地制度の変更(723年の三世一身法制定)により、自発的な土地の開墾・開発が促されるようになりました。
このような制度や気風の変化に後押しされて、行基の活動は更に広まり、朝廷も行基の活動を否定しなくなりました。
天然痘の流行、飢饉、争いごとなどが相次ぎ社会不安が高まる中、聖武天皇は国家の安定を願って「盧舎那仏造営の詔」を発しました。
大仏造立の莫大な費用を勧進によって調達し、多くの人夫を集めて行う一大公共事業を任せられるのは、土木事業の経験があり、民衆に絶大なる人気のある行基以外の選択はありません。
こうして、朝廷は世紀の国家プロジェクトを行基に任せることにしたのでした。
行基ゆかりの地
行基に関わる場所は全国にありますが、ここでは2つご紹介しましょう。
「土塔」行基が作った謎のピラミッド?
堺市中区土塔町にある大野寺は、行基が建てた49ある寺院のうちの1つです。
その大野寺に不思議なモニュメントがあります。
それが727年に行基が60歳のときに建て始めた土塔で、現在国の史蹟となっています。
一辺が約55m、高さ約9mの巨大な方形は13段重ね。
頂点部分が少し平らになったピラミッドのようです。
発掘調査により、この土塔には全部で6万枚にも及ぶ瓦が葺かれていたことがわかりました。
しかも、出土した瓦の中には当時の人の名前が刻まれたものがありました。
これらは古代の文字資料として非常に貴重な国の重要文化財です。
土塔は復元整備され、創建当時の姿が再現されています。
ただ、この土塔を建てた目的については未だ明確なことはわかっていません。
<大野寺の土塔 大阪府堺市中区土塔町2164>
行基の墓所
生駒山山中にある律宗の寺院・竹林寺は、行基がもともと庵を構えていた場所でした。
749年、奈良市菅原町の喜光寺で82歳の生涯を閉じた行基は、弟子たちによって火葬され、当寺に埋葬されました。
行基は文殊菩薩の化身だと言われていましたが、この竹林寺の寺号は、文殊菩薩の聖地・中国五台山大聖竹林寺にちなんだものです。
数度の廃寺同然の危機を乗り越え、1997年から整備が進められています。
<行基墓所 竹林寺:奈良県生駒市有里町211-1>
きょうのまとめ
今回は奈良時代に朝廷の弾圧にも負けず人々のために社会事業を成し遂げ、多くのに民に慕われた法相宗の僧・行基についてご紹介しました。
簡単にまとめると
行基とは
① 各地を行脚して布教に取り組み、階層を問わず民衆から絶大なる支持を得て菩薩と呼ばれた僧
② 朝廷からの弾圧に負けず、僧俗が一緒になって社会事業を実行して人々の生活の向上に努めた人物
③ 聖武天皇から東大寺の大仏造立事業を任され、尽力した日本初の大僧正
でした。
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