二コラ・テスラとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

「電流の父」とも言われる発明家、二コラ・テスラ

同じく発明王と謳われるエジソンの存在に押され気味で、意外と知らない人も多いのではないでしょうか。

ニコラ・テスラとは、一体どんな人物だったのでしょう。

今回はその生涯について、功績やエピソードと共にご紹介します。

 

二コラ・テスラはどんな人?

プロフィール
ニコラ・テスラ

ニコラ・テスラ
出典:Wikipedia

  • 出身地:オーストリア帝国(現クロアチア)
  • 生年月日:1856年7月10日
  • 死亡年月日:1943年1月7日(享年86歳)
  • 電気技師、発明家。交流電流システムの生みの親。

 

二コラ・テスラ 年表

年表

西暦(年齢)

1856年(0歳)オーストリア帝国・スミリャン(現在のクロアチア)で、セルビア人家庭の次男として誕生。

1861年(5歳)兄の急死によって一家の期待を一身に背負うことになり、様々な学問分野の才能を開花させると同時に重い精神障害を発症。

1875年(19歳)グラーツ工科大学に進学。講義中に使用した発電機の無駄を見つけ、新たな発電機の構想を練る。

1878年(22歳)同大学を中退しプラハ大学に留学。その後、ブタペスト国営電信局やゼネラル・エレクトリックのフランス法人へ就職。

1882年(26歳)後の交流電流システムの原型、「二相交流モーター」を開発。

1884年(28歳)交流電流による発電、送電システムを広げる為、渡米。「エジソン電灯会社」に就職。

1885年(29歳)エジソンとの間に大きな確執をつくり同会社を退社。

1887年(31歳)「テスラ電灯会社」を設立し、独立。エジソンとの「電流戦争」開始。

1888年(32歳)アメリカ電子工学会で行ったデモンストレーションの成功により、発電所に交流送電式の発電機が採用される。

1893年(37歳)シカゴ万博に交流送電式の発電機が採用される。ラジオの原型、「無線トランスミッター」の開発。

1905年(49歳)「世界システム」という構想を掲げ、巨大無線送信塔「ウォーデンクリフ・タワー」を建築。実験を行うも失敗。

1916年(60歳)アメリカ電子工学会からエジソン勲章の授与を打診されるも拒否。しかし翌年の打診では受諾。

1937年(81歳)ノーベル賞の受賞候補者となる。

1943年(86歳)1月7日、晩年を過ごしていたホテルで死去。

 

二コラ・テスラの生涯

ここでは早速二コラ・テスラの主な功績と、その生涯を語るうえで外せない人物との関係をご紹介していきます。

「交流電流」の生みの親

まずは、ニコラ・テスラの最大の偉業として押さえておきたい「交流電流」についてご紹介します。

現在の電流の送電方法には、

・直流電流

・交流電流

という2つのパターンがあります。

前者の「直流電流」エジソンが発明した電流方式で、「交流電流」よりも前に普及していた送電方法でした。

この「直流電流」の性質は、電圧や電流の方向が一定であることが特徴です。

その為、動かしたい機械をこの電流の方向に合わせて設計する必要があるのです。

現在の乾電池によって動いている機械は、この送電方法を採用していることになります。

一方で「交流電流」は、電圧や電流の方向を変えることができるのが特徴です。

この発明により、機械を設計する際の自由度が上がりました。

どちらの送電方法も現代社会で電気エネルギーを用いる際に使用されており、優劣をつけられるものではありません。

しかしニコラ・テスラが発明した「交流電流」、及び「交流電源装置」は、電気エネルギーをより安全かつ大衆向けに使用することを可能にしたのです。

その他の発明

ニコラ・テスラが発明した画期的な物の中には、私たちが当たり前のように知っている物もあります。

例えば、

・ラジオ

・リモコン

・レントゲン検査装置の原型

等を挙げることができます。

リモコンに関してはそれ自体を作ろうとしていたのではなく、「ラジオの開発中に偶然できてしまったもの」と言われています。

私たちがテレビを観る際に当たり前のように使用するリモコン。

この技術は一般向けの機器以外に運送機械などにも応用されており、偶然の産物は広く世界に普及する発明品となったのです。

さらに二コラ・テスラは、少し現実離れした物の発明にも取り組んでいました。

そのスケールの大きさと、当時としては現実味の薄さから成功には至りませんでしたが、

・霊界交信機器

・全世界的な無線送信機

等を本気で発明しようとしていました。

ちなみに「全世界的な無線送信機」は、Wi-Fiの原型と考えられています。

電流戦争

最初にご紹介した二コラ・テスラの最大の発明である「交流電流」。

「直流電流」と優劣をつけられるものではないとご説明しましたが、発明した当事者間ではそうもいきませんでした。

二コラ・テスラは大学での勉強が物足りなくなり中退した後、いくつかの職場に属しながら画期的な送電方法の開発に向け研究していました。

そして26歳で交流電源装置の原型の開発に成功すると、28歳のときに渡米。

この新たな送電方法を世に広げるために、尊敬していたエジソンのいる会社に就職したのです。

そしてより無駄なくエネルギーを使用する為に、自らが発明した送電方法の導入を直訴。

全て「直流電流」で動いていた工場内の機械類に、「交流電流」を取り入れてもらおうとしました。

しかし自身の発明に誇りを持っていたエジソンは、若き二コラ・テスラの申し入れを認めることはできませんでした。

そして、どうせできないだろうと思ったエジソンは、

エジソン
工場内全ての機械を交流電流で動かすことができたら、君に5万ドル支払う

と言ったのです。

しかし二コラ・テスラがそれをやってのけると、

エジソン
あれは冗談だった

といって支払いを拒否し、二コラ・テスラは激怒。

2人の間には大きな確執が生まれ、二コラ・テスラが独立し「交流電流」が徐々に世に広まると、お互いを邪魔し合う様な関係が続きました。

 

二コラ・テスラにまつわるエピソード

ここでは、二コラ・テスラに関する意外なエピソードをご紹介していきます。

期待の神童

セルビア人の家庭に次男として誕生した二コラ・テスラ。

幼い頃から既に天才の片鱗を覗かせていた彼ですが、実は彼以上に優秀だったと言われる7歳上の兄がいました。

しかし神童と言われた兄は12歳で突然死去。

周囲からの期待はまだ5歳だった二コラ・テスラに集まります。

彼はそれに応えるために努力した結果、様々な才能が開花します。

子供ながらに8か国語を習得し、5歳にして小型の水車を作ったというエピソードもあります。

また詩作や音楽、そして哲学的な才能も持ち合わせていました。

変わり者の苦悩

そんな神童にして天才だった二コラ・テスラですが、その代償なのか、幼い頃から様々な精神障害に苦しむ人生となりました。

・幻覚障害

・恐怖症

等を抱えたまま成人した彼は、極度の潔癖症にもなり、独自の細かなルールを幾つも持っていました。

その気難しさゆえに、せっかく得たパトロンとも良好な関係が築けず、たびたび資金面でも苦しむこととなったのです。

晩年はホテルで暮らしていた二コラ・テスラですが、決して悠々自適な暮らしではありませんでした。

特許権によってわずかに入ってくる収入をほとんど研究に回し、亡くなったときは無一文も同然だったと言います。

 

きょうのまとめ

今回は電気技師にして発明家のニコラ・テスラについて、その生涯と功績をご紹介してきました。

いかがでしたでしょうか。

最後に、ニコラ・テスラとはどんな人物だったのか簡単にまとめると

① 19世紀~20世紀に活躍した発明家、電気技師。

② 「交流電流」を発明し、電気エネルギーを一般化した。

③ エジソンとの対立により、彼の存在はあまり広く知られていない。

「馬鹿と天才は紙一重」などという言葉もありますが、間違いなく天才だった二コラ・テスラも、それ相応の苦悩を抱えた人生を送ったのです。

目次に戻る ▶▶

こちらの記事もおすすめです。
関連記事 >>>> 「天才発明家二コラ・テスラの名言6選!」

 

その他の世界の偉人ははこちらから

関連記事 >>>> 「世界の偉人一覧」

 










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

4 × four =