トーマス・ブレーク・グラバー。
幕末の日本で活躍したイギリス、正確にはスコットランド出身の貿易商です。
彼は、「死の商人」とも「青い目の志士」とも呼ばれています。
その理由についてご紹介しましょう。
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グラバーの仕事
グラバーは、安政の開国直後の1859年に来日したスコットランド人です。
彼は当時、東アジア最大の貿易会社であったジャーディン・マセソン商会の社員で、上海勤務を経て長崎にやってきます。
21歳でした。
ジャーディン・マセソン商会とは?
前身は、アジア貿易つまりアジア各地にある植民地経営や交易を目的に設立された、イギリスの東インド会社です。
1832年ヨーロッパ商人に唯一開かれた貿易港のある中国の広州・沙面島に設立されました。
設立当初の会社の主な業務とは、茶をイギリスへ輸出することと、実はアヘンの密輸でした。
長崎の中国人商人を通じて日本の物品の密貿易も行っています。
1853年に江戸幕府により日米和親条約が締結され、続いて日英、日ロ、日蘭の和親条約も締結されました。
そして長崎港と函館港が開港されると、ジャーディン・マセソン商会上海支店は、
・材木
・薬
を持ち込みました。
逆に日本からは
・鮫皮
・海藻
・米
などを購入。
こうして正式なビジネスが開始しました。
グラバーはこの上海支店に勤務していたのです。
グラバーが作った会社・グラバー商会とは?
グラバーは、もともといたジャーディン・マセソン商会の先任代理人が中国に転勤したため、その業務を引き継ぎました。
23歳で「グラバー商会」を立ち上げ、ジャーディン・マセソン社の代理店として独立したのです。
当初は日本からの茶や生糸の輸出を主に扱っていた会社です。
しかし、のちに
・軍艦
・武器
・弾薬
を輸入販売するようになりました。
やり手貿易商・グラバーは「死の商人」か?
江戸幕府末期の動乱に目を付けたのが、西欧諸国からやってきていた商人たちでした。
1863年に起きた八月十八日の政変をきっかけに、欧米の貿易商人たちは西洋の武器を欲しがった薩摩・長州・土佐などの倒幕派を支援し、武器を販売。
これが明治維新の成立に大きな影響を与えました。
グラバーもそんな貿易商人の1人だったのです。
アヘン戦争を起こした原因を作った会社に勤務
グラバーが最初に勤めたマセソン社は、先述したようにアヘンを中国に密輸していました。
それが原因で起きたのが1840年から中国(清)と英国の間のアヘン戦争です。
中国にアヘンを蔓延させ、巨額の利を得るビジネスを展開し、戦争の原因を作ったのは彼の勤務した会社だったのです。
人を殺す道具を多く販売した事実
またグラバーは、売れる相手には誰にでも武器を売りさばきました。
薩英戦争でグラバーの出身地であるイギリスと戦う薩摩藩にさえも武器を提供しています。
彼自身がどのようなポリシーで武器販売を行っていたのかはわかりません。
しかし、結果として彼は、坂本龍馬などをエージェントに幕末の混乱時期に武器商人として活躍したのです。
その武器・兵器によって多くの日本人が戦い、殺し合ったのは事実。
この点において「死の商人」の言葉を免れることはできません。
では、彼は日本を混乱に招いた極悪人だったのでしょうか?
グラバーは、五代友厚・坂本龍馬とも協力し合った「青い目の志士?」
一方で、グラバーと幕末の志士たちとの間には、商人と顧客以上の深い交流がありました。
トーマス・グラバーの成功の原因の一つに、五代友厚や坂本龍馬との出会いが挙げられます。
五代友厚と日本の近代化を推進
実業家のイメージが強い五代友厚ですが、彼は鹿児島藩士でした。
薩摩藩の艦船や武器の買い付けなどの商務を担当。
グラバー商会はその薩摩藩が武器・弾薬の大口顧客となったことで急成長しました。
1863年の生麦事件で、薩摩藩の島津久光の一行が生麦村で列を乱したイギリス人たちの一人を無礼討ちした時、日英間の和平調停をしたのが五代友厚とグラバーでした。
薩英戦争が始まり、イギリス海軍に捕縛された五代友厚が逃亡した際には、グラバーが彼を匿うなどの手助けもしています。
五代は、1865年にはグラバー商会が手配した蒸気船で、ヨーロッパ留学しました。
グラバーは五代と共に
・大阪造幣局の設置のための香港造幣局の機械一式の購入
などを行い、日本の近代化に貢献しています。
坂本龍馬の亀山社中を後ろ盾した
グラバーの幕末時に果たした大きな功績は、坂本龍馬が仲介役をした薩長同盟の成立に尽力したことです。
薩摩藩と長州藩が同盟を結べば、どちらの藩にも物資の提供をすることを約束したことが両藩、特に物資不足だった長州藩を動かして、二藩の密約が成立しました。
この同盟に尽力した坂本龍馬は、彼の創った貿易結社・亀山社中を通じて倒幕の物資手配に奔走します。
その後ろ盾となったのがグラバーでした。
彼もこのような形で倒幕運動に荷担したのです。
日本を愛し、生涯を日本で送った「青い目の志士」
上記のように、薩摩藩、長州藩、土佐藩などを通じて討幕運動に寄与したグラバーは、その点では志士たちと目的を同じくする仲間でもありました。
日本人ではありませんが、彼も「志士」の1人だったのです。
また、日本をとても愛したグラバーは、日本人の妻を持ち、生涯を日本で暮しました。
このように、きっかけは商売であった貿易商人のグラバーが、結果として「青い目の志士」と呼ばれることもあながち間違いではないのです。
きょうのまとめ
今回は、幕末の日本にやってきた貿易商人グラバーが、「死の商人」「青い目の志士」と呼ばれるゆえんについてご紹介しました。
簡単なまとめ
グラバーは、
① アヘン戦争の黒幕となった会社に勤務し、独立後に倒幕派に武器を供給して戦争に荷担したため「死の商人」と呼ばれた
② 江戸幕府を倒し、新しい国を作ろうとした志士たちに協力し、「青い目の志士」とも呼ばれた
③ きっかけはビジネスとして来日したが、日本を愛し、日本で生涯を終えた
のでした。
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