鑑真とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

鑑真がんじんは日本人ではありません。

唐と呼ばれた時代の中国の僧です。

では、彼がどんな人物で、なぜ日本にやって来たのかをご紹介しましょう。

 

鑑真はどんな人?

プロフィール
鑑真

唐招提寺に安置されている国宝
「鑑真和上像」
出典:Wikipedia

  • 出身地:唐の揚州江陽県ようしゅうこうようけん(現在の中国四川省濾州市しせんしょうろしゅうし
  • 生年月日:688年
  • 死亡年月日:763年(享年76歳)
  • 奈良時代に5回の渡航失敗を乗り越えて唐から来日した帰化僧。日本における律宗りっしゅうの祖として活躍し、唐招提寺とうしょうだいじを建立した

 

鑑真 年表

年表

西暦(年齢)

688年(1歳)唐(中国)の揚州に生まれる

688年(14歳)揚州の大雲寺で出家

707年(20歳)長安に入り、律宗・天台宗を学ぶ

742年(55歳)揚州で大明寺の住職をしていたときに、日本からの留学僧・栄叡ようえい普照ふしょうに来日を要請され、日本へ行く決心をする

753年(66歳)5回の渡航失敗を乗り越え、12年目にして日本に渡ることに成功

754年(67歳)東大寺大仏殿の前で聖武しょうむ上皇以下約440名の僧に授戒する

755年(68歳)東大寺戒壇院を建立

758年(71歳)僧として最高の位である大和上だいわじょうの呼び名を賜る

759年(72歳)唐招提寺を建立

763年(76歳)死没

 

鑑真の生涯

鑑真は唐の僧ですが、人生の最後の10年は日本で過ごしました。

唐の高僧となり、来日を請われる鑑真

688年、唐の東部にある揚州にて誕生した鑑真。

僧になる前の名前は淳于じゅんうです。

14歳の時に大雲寺で出家し、唐の首都・長安ちょうあんで律宗と天台宗について学びました。

特に修行僧の生活規範を定める戒律についての研究に励み、南山律宗の継承者となりました。

713年には再び故郷の大雲寺に戻っています。

742年、鑑真が揚州の大明寺住職として暮らしていた頃、日本から栄叡と普照という2人の僧が彼の元を訪ねました。

そして律宗の僧として高名だった鑑真に日本に戒律を伝えるよう懇願したのです。

日本への苦難の道

要請を受けた鑑真ですが、弟子たちの中に危険な航海を冒してまで日本へ渡りたい者がいません。

そこで鑑真自ら日本へ向かうことにしました。

しかし、743年からその後11年の間に試みた5回の渡航はことごとく失敗

渡航失敗の原因は悪天候だけでなく、鑑真が日本へ行くとなると、弟子もついていかなくてはならず、危険な船旅をいやがる弟子たちの妨害もあったのです。

それでも753年に出発した鑑真はついに渡日に成功。

その時、鑑真はすでに66歳となっていました。

日本における授戒制度の確立へ

754年、鑑真は大宰府に到着。

戒壇院かいだんいんで初の授戒じゅかい(仏門に入る者に戒律を授けること)を行います。

翌年には平城京に到着し、聖武上皇、孝謙こうけん天皇から歓待を受けました。

鑑真は東大寺に住み、日本における戒壇(戒律を授けるために設ける檀)の設立と授戒を全面的に任されたのでした。

彼は日本の律宗の祖として戒律制度を整備していったのです。

東大寺で5年過ごしたあと、鑑真は奈良に唐招提寺を建立しています。

そこで残りの5年を過ごした鑑真は、76歳で生涯を終えました。

 

鑑真の執念

5回の渡航失敗を体験しても、決して渡日を諦めなかった鑑真。

そこには彼の並々ならぬ決意がありました。

5回の渡航失敗と最後の成功

弟子たちを含め鑑真周辺の人々は、日本へ無事に着く保証のない船旅をひどく怖れていました。

鑑真が最初に渡航を試みた743年から最後に成功した753年までの苦難の過程を見てみましょう。

【1回目】
渡航を嫌がった弟子のウソにより栄叡と普照は追放。鑑真は足止めされて渡航不可能に。

【2回目】
出航後の暴風雨のため引き返す。

【3回目】
鑑真周辺の者の密告により、栄叡が逮捕されて渡航不可能に。

【4回目】
病死を装い出獄した栄叡と共に出航しようとしたが、鑑真の安否を気遣う弟子が役人に訴え、出航差し止め。

【5回目】
出航後、激しい暴風により中国南部の海南島に漂着。1年後に唐へ戻る途中、栄叡が死亡、鑑真も南方の気候や疲労などにより両眼を失明した。

【6回目】
明州当局の妨害にも屈せず出航。754年についに悲願の日本上陸を果たす。

約11年という年月で鑑真は視力を失い、日本僧・栄叡と鑑真の弟子・祥彦しょうげん死亡

それ以外にも海路・陸路の旅で36人が命を落とし、諦めて彼の元を去った者の数は200以上にのぼったそうです。

渡航できない期間にも、各地で伝道、講義、寺の建立、授戒などの活動を続けた鑑真。

悲しい代償を払いながらも、固い決意と執念で日本の地を踏むことを達成したのです。

鑑真の視力

視力を失いながらも言葉や文化の違う国へ初めてやってきた鑑真の苦労は計り知れません。

しかし、近年の研究により、鑑真は完全には失明していなかったということがわかりました。

「鑑真書状」の研究過程で、彼が『一切経』の校正作業で多くの誤字の訂正を行ったという事実が判明しています。

 

鑑真は日本で何をしたのか

唐に住んでいた鑑真をわざわざ日本に招いたのはなぜでしょうか。

僧侶になるのを許可制にしたかった聖武天皇

鑑真がやって来る前の日本では、僧は

・労働

・納税

・兵役

などが免除されるため、自分で出家を誓って安易に僧侶になろうとする者が多くありました。

聖武天皇はそれに頭を悩ませていたのです。

多くの人が簡単に僧になることで、国力や財政に悪影響があったからです。

聖武天皇は国による許可制で僧を管理することを目指し、戒律について研究を極めた鑑真を日本の律宗の祖として歓迎したのでした。

鑑真和上の貢献

宮廷による厚い信頼もあり、「大和上」という号を授与された鑑真は日本の仏教を変革していきました。

・東大寺大仏殿に戒壇を築く

・聖武上皇、孝謙天皇、光明皇后から僧尼まで400名に菩薩戒ぼさつかいを授ける

・大宰府観世音寺や下野国薬師寺に戒壇を設置

・唐招提寺の創建と戒壇の設置

また、

・興福寺に貧民救済の収容型施設・悲田院ひでんいんを設立

・中国よりも医学・薬学知識が遅れていた日本に、実践的な漢方医学の教授したこと

なども評価されています。

 

鑑真の墓所 唐招提寺とは

東大寺で5年間過ごした後の鑑真は、現在の奈良市五条町の土地を下賜され、759年に戒律を学ぶための道場として、唐招提寺を建てました。

律宗総本山の当寺は、1998年に古都奈良の文化財の一部として世界遺産に登録されています。

墓所 鑑真和上御廟

境内の北東の奥まった静かな場所に鑑真和上の墓所「鑑真和上御廟ごびょうがあります。

苦難を乗り越え、日本の仏教界のために全力を尽くした鑑真は1250年以上ここに眠っています。

その御廟前に植えられている白い可憐な花、瓊花けいかは、鑑真の故郷・揚州から贈られたものです。

偉大な僧を偲び、参拝に訪れる人は今も絶えることはありません。

日本最古の肖像彫刻 乾漆鑑真和上坐像

長い歴史を誇る唐招提寺には、天平文化の香りをたたえた国宝や重要文化財の建造物、沢山の文化財が保存されています。

その中にある国宝の一つが、御影堂みえいどうに安置されている

「乾漆鑑真和上坐像」かんしつがんじんわじょうざぞう

763年に鑑真が亡くなりましたが、その前年の春に、弟子の忍基にんき

「講堂のはりが折れる」

という夢を見て鑑真の死期が迫っていることを悟り、この乾漆像を作らせ始めたのだそうです。

日本で最古の人物の肖像彫刻であり、私たちが知る鑑真のイメージとは、この彫刻が元になっています。

<律宗総本山 唐招提寺(鑑真和上御廟/御影堂 乾漆鑑真和上坐像):奈良市五条町13-46>

 

きょうのまとめ

今回は、数々の苦難に耐え、律宗を伝播させるために日本にやってきた偉大な僧・鑑真についてご紹介しました。

最後に簡単にまとめます。

① 唐における律宗の高名な僧

② 日本からの要請に応えて5回の失敗を乗り越え、6回目の渡航で日本上陸に成功した執念の帰化僧

③ 日本に律宗を伝え、戒律・授戒を整備し広めた日本仏教の変革者

④ 東大寺戒壇院や唐招提寺を建立した大和上だいわじょう

 

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