公卿・藤原基経は
自分の栄達と藤原氏繁栄のために尽力しました。
藤原氏最初の絶頂期を迎えた基経とはどんな人物だったのでしょう。
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藤原基経はどんな人?
- 出身地:京(現在の京都市)
- 生年月日:836年
- 死亡年月日:891年1月13日(享年56歳)
- 藤原氏の最初の絶頂期で活躍した太政大臣。日本史上初の関白に就任した
藤原基経年表
西暦(年齢)
836年(1歳)中納言・藤原長良の3男として誕生(のち叔父・良房の養子となった)
851年(16歳)文徳天皇の加冠によって元服
858年(23歳)清和天皇の即位。天皇の側近・蔵人頭となる
864年(29歳)参議となる
866年(31歳)応天門の変。養父・良房と共に伴氏・紀氏を排斥
870年(35歳)大納言となる
872年(37歳)正三位右大臣となる
876年(41歳)清和天皇が譲位し、陽成天皇が誕生。摂政に任ぜられる
878年(43歳)元慶の乱。藤原保則、小野春風らを起用して鎮撫させる
879年(44歳)この年以降数年かけて班田収受の実施。菅原是善らと共に『日本文徳天皇実録」全10巻を完成させる
880年(45歳)関白、太政大臣に任ぜられる
883年(48歳)宮中で起きた源益殺害事件で陽成天皇が疑われる
884年(49歳)陽成天皇退位。仁明天皇の第三皇子・時康親王が光孝天皇として即位。基経が実質的関白となる
887年(52歳)光孝天皇崩御。光孝天皇の第七皇子・源定省が宇多天皇として即位。阿衡事件で基経が半年間職務をボイコットをする
891年(56歳)前年からの病で亡くなる。
藤原基経の生涯
既に政権でトップに君臨していた叔父・藤原良房の養子となった藤原基経は、政界デビューも非常に幸先のよいスタートを切っています。
基経誕生から応天門の変
836年、中納言だった藤原長良の3男として誕生した藤原基経。
のちに長良の弟で、跡継ぎの男子がいなかった政界トップの叔父・藤原良房の養子となりました。
元服は文徳天皇に加冠されるという特別待遇。
その後は順調に出世をします。
858年に清和天皇が即位すると基経は側近の蔵人頭となり、
さらに864年には参議に昇進して公卿の仲間入りを果たしました。
866年には応天門の変が起きます。
これは、内裏の応天門が火事に遭ったことをきっかけにして養父・良房と基経が、放火犯とされた伴善男ら伴氏や関係した紀氏らを排斥した政治事件です。
ライバルたちの失脚のあと、基経は7人もの公卿を抜いて中納言に昇進し、従三位に叙されています。
清和・陽成・光孝天皇に摂政や関白として仕える基経
基経はさらに870年に大納言に、872年には右大臣と出世を続けます。
また、清和天皇が17歳の時に基経の妹・高子が入内し、868年には貞明親王(のちの陽成天皇)が誕生。
赤ん坊だった皇子はすぐに立太子されましたが、それらは全て藤原良房の意向でした。
良房の死後、婚姻による天皇家との密な関係と清和天皇の摂政の職務は、基経が引き継ぎました。
876年、災害・天変地異を自身の不徳と考えた清和天皇が退位。
すぐに息子の貞明親王が即位して陽成天皇となりました。
9歳という幼い陽成天皇のために伯父の基経は摂政を務めます。
しかし、彼の実妹・高子や素行が悪かったと言われる陽成天皇たち母子と基経との関係は良くありませんでした。
883年、宮中で天皇の乳母の子・源益の殺害事件が発生しました。
陽成天皇が殴り殺したとの噂があり、基経は事故か殺人かが不明のまま陽成天皇に退位を迫りました。
若い天皇は、基経や彼に追従する他の公卿たちに逆らえず退位しています。
基経は、新天皇選びから陽成天皇の弟であり仲の悪い高子の皇子・貞保親王を避けました。
そして、温和で才識があり、品行方正な仁明天皇の第3皇子・時康親王を光孝天皇に即位させたのでした。
光孝天皇は基経への感謝を表するため
・次期天皇への野心を持たせない目的で自身の皇子たちを全て臣籍降下
を実行。
55歳で即位した遅咲きの天皇は、3年後に崩御しています。
基経が最後に仕えた宇多天皇と阿衡事件
887年、基経は光孝天皇の臣籍降下していた第7皇子・源定省を天皇に即位させてしまいました。
一度皇籍から外れた定省を親王に戻し、皇太子にしてから宇多天皇として即位させるという前代未聞のことを成功させたのです。
ところが、その宇多天皇が出した基経を関白に任ずる詔が大問題を引き起こします。
関白を意味する「阿衡」の文字の解釈が原因で、自分の職務がただの名誉職だと言われた基経が激怒したのです。
彼が半年もの職場放棄をして朝廷機能をマヒさせたたこの事件は「阿衡事件」と呼ばれます。
詔の起草者・橘広相が罷免され、宇多天皇が過ちを詫びてからようやく基経は職場復帰しました。
その後、基経は娘・温子を宇多天皇の女御として入内させるなど、宇多天皇との関係を表面上は修復しています。
基経は宇多天皇の在位中、891年に病が原因で56歳の生涯を終えました。
ワガママ基経の職場放棄は1度ではない!?
阿衡事件では半年間も職場放棄をした藤原基経。
実は何か不満があるとすぐに仕事のボイコットをするのが基経の常套手段でした。
・陽成天皇時代:天皇との不和で辞職を申し出、許可されないので自邸に引きこもった
というようなこともあったのです。
歴代天皇にとって、基経は非常に扱いにくい公卿だったことでしょう。
陰謀だけをやっていたのではない基経
藤原基経の朝廷における力は絶大で、怖いものなし状態。
・娘を天皇の后にして天皇家との外戚関係を狙う
・天皇の即位、廃位をコントロール
・職務放棄による基経自身の示威行為
というようなことばかりしていたイメージがありますが、実は基経も陰謀ばかりしていたわけではありません。
【878年 元慶の乱を鎮撫】
蝦夷からの移住者たちが朝廷の圧政に対して起こした出羽国での反乱を、キレ者能吏・藤原保則を起用して、武力に頼らずに鎮撫させることに成功した。
【879年 班田収受整備】
約50年ぶりに農地の支給や収容についての法整備を整えた。
【879年 『日本文徳天皇実録』全10巻の完成】
菅原是善(菅原道真の父)らと共に国家事業の歴史書編纂である六国史(古代日本の律令国家が編纂した『日本書紀』以下の6つの正史)の第5番目を完成させた。
形式を重んじ何事にも厳しい藤原基経は、その性格をもって国内政治においても几帳面に職務をこなす一面も見せています。
基経の墓所
京都府宇治市に「宇治陵」と呼ばれる陵墓群があります。
宇治市木幡にある地蔵山・御蔵山山エリアに点在しており、藤原氏出身の皇室関係者の17陵3墓が、1号から37号の番号を付けられて宮内庁に管理されています。
残念ながら、どの墓が誰のものかは明確ではありません。
その代わり1号陵は「宇治陵総拝所」となっており、ここに藤原氏の名前を記した供養碑があります。
供養碑には藤原良房・基経父子、子孫の藤原道長などの名前が見られます。
また、許波多神社境内にある36号陵が基経の墓なのではないかとも言われています。
<宇治陵総拝所 京都府宇治市木幡南山畑34-1>
<宇治陵36号墳 許波多神社境内 京都府宇治市木幡東中34-8>
きょうのまとめ
藤原基経とは
① 摂政・藤原良房の後を継ぎ、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の4代にわたり朝廷の実権を握った人物
② 日本史上初の関白となった公卿
③ 天皇の即位・廃位をコントロールし、政治事件を利用して天皇を凌ぐ権力を誇示した宮廷一の実力者
でした。
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