家系図で見る藤原基経の一族と家族

 

平安時代の華々しく朝廷を賑わせた藤原氏の繁栄。

それを加速させた人物が藤原基経ふじわらのもとつねです。

養父の藤原良房ふじわらのよしふさと共に藤原氏繁栄のためあらゆる手段を尽くした基経と、彼の一族や家族について系図を通して見ていきましょう。

(藤原氏の家系についての説明は、既に当サイトの記事「藤原道長の先祖と子孫を家系図で簡単に説明」にもあります。若干重なる部分もありますが、そちらの記事も合わせてお読みいただくとより理解が深まります。)

 

藤原基経の家系図

藤原基経の家系図です。

家系図

藤原基経の先祖

藤原基経

藤原基経
菊池容斎『前賢故実』より
出典:Wikipedia

645年に起きた事件、乙巳いっしの変。

中大兄皇子なかのおおえのおうじ中臣鎌足なかとみのかまたりと共に蘇我入鹿そがのいるかを暗殺した政治事件です。

鎌足の功績に対し、死の直前に藤原という姓を与えられたことから藤原氏が始まりました。

藤原不比等(659-720)

藤原氏を名乗った最初の人物は鎌足の息子の藤原不比等ふじわらのふひとです。

不比等の4人の息子たちは、それぞれ藤原氏の中で「北家」「南家」「式家」「京家」の4つの家系の先祖となりました。

藤原房前(681-737)

藤原北家の始祖が藤原房前ふじわらのふささきです。

飛鳥時代から奈良時代の人物です。

彼は不比等の2男でしたが、温厚な長男・武智麻呂を上回る勢いのやり手公卿。

8人の息子たちに恵まれました。

藤原冬嗣(775-826)

房前の3男の真楯またての孫が、平安時代初期に活躍した藤原冬嗣ふじわらのふゆつぐです。

桓武天皇、平城天皇、嵯峨天皇、そして淳和天皇の4帝に仕えました。

特に嵯峨天皇の側近として重用され、異例のスピード昇進を遂げています。

政治的才能がありながら、文武両道で温和な性格の人物でした。

藤原長良(802-856)

冬嗣の8人いる息子のうち、長男が藤原長良ふじわらのながらです。

この人物こそ藤原基経の実父。

礼節をわきまえ、多くの人に慕われた寛容な人物だったそうです。

弟の藤原良房、良相よしみらに昇進で遅れを取りましたが、それを不満にもせず、兄弟を非常に大切にしました。

子女に恵まれ、子孫が繁栄しています。

 

基経の家族

藤原長良の3男だった基経は、男子に恵まれなかった叔父・藤原良房の養子となりました。

基経の家族構成

基経の家族メンバーを見てみましょう。

藤原長良は子に恵まれましたので、基経には同母・異母含めて実の兄弟が沢山ありました。

父:藤原長良

母:藤原乙春ふじわらのおとはる

養父:藤原良房

兄弟:藤原国経ふじわらのくにつね(異母兄)、遠経とおつね(異母兄)他6名

妹:藤原淑子ふじわらのしゅくし(異母妹)、高子たかいこ(同母妹)

鋭い政治感覚を持つ3男の藤原基経は、当時の朝廷の実力者として活躍していた藤原良房に見込まれました。

良房の養子となった基経は跡を継ぎ、摂政、関白、太政大臣を務める最高権力者となったのです。

基経の妹・藤原高子(842-910)

さて、基経の妹で大変仲の悪かった藤原高子をここでご紹介。

彼女は叔父である藤原良房、兄である基経の政略的な手駒として使われた可能性の高い女性です。

まず、866年に25歳で17歳の清和せいわ天皇の女御として入内。

25歳という当時の女性としては遅い結婚で、しかも清和天皇は彼女よりも8歳も年下の17歳でした。

少々無理のある結婚だったかもしれません。

高子は清和天皇との間に3人の子供を設け、長男・貞明さだあきら親王が9歳で即位して陽成ようぜい天皇となりました。

ところが、宮中での殺人事件との関係が疑われた17歳の陽成天皇は、基経に迫られ天皇退位。

基経は次の天皇に陽成天皇の弟ではなく、55歳の時康ときやす親王を即位させて、光孝こうこう天皇を誕生させました。

このあたりの基経による天皇後継者の操作も、高子との関係に影響されたようです。

彼は高子の息子つまり自分の甥を天皇から退位させ、さらにその弟にも即位のチャンスを与えませんでした。

外戚関係を放棄してまで光孝天皇を即位させた基経は、よほど高子を嫌っていたのかもしれません。

ただ、高子はなかなか情熱家でアクティブな女性だった様子。

入内する前に平安きってのプレイボーイとして知られる在原業平ありわらのなりひらとの恋愛や駆け落ちが噂された女性です。

手駒として清和天皇の后にされたものの、陽成天皇の母、つまり国母として朝廷の権力者・基経と火花を散らしたところはやはり基経の妹らしいところです。

 

藤原基経の子孫

基経には3人の妻との間に5人の息子と5人以上の娘がいました。

基経の子・藤原時平(871-909)&藤原忠平(880-949)

基経の子として特に活躍したのは、長男で嫡男の藤原時平ときひらと4男の藤原忠平ただひら

時平は、901年に右大臣・菅原道真すがわらのみちざねを大宰府に左遷させた昌泰しょうたいの変の中心人物として知られます。

その後は政権の座を確保し、政治改革にも熱心に取り組みましたが、39歳の若さで急死しました。

その死は道真の祟りといわれ、のち時平の家系の流れは没落していったのでした。

時平の後に朝廷の中心となったのが、弟の忠平です。

兄亡き後藤原氏の氏長者うじちょうじゃとなり、太政大臣、摂政、関白を務め、積極的に政治改革を行った人物です。

基経の子孫たちの繁栄

摂関家の中において基経の血統は世代を経て子孫へと広がりました。

中でも、氏長者としての血筋は、基経-忠平-師輔もろすけ兼家かねいえ道長頼通よりみちと受け継がれていったのです。

藤原氏の全盛期の繁栄を謳歌した藤原道長は、基経から数えて5代目となります。

 

きょうのまとめ

今回は藤原基経の家系図についてご紹介しました。

簡単なまとめ

① 藤原基経は、藤原氏の始祖である藤原不比等から数えて7代目の子孫となる

② 基経は藤原長良の3男だったが、当時の実力者で叔父の良房の養子となる

③ 藤原道長は基経から数えて5代目の直系子孫である

 

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku