平安中期の貴公子・藤原行成は、仕事はできましたが、全く女性にウケないカタブツ官僚。
でも、あの清少納言とはお互い「和歌嫌い」で意気投合した親しい間柄でした。
友だち?恋人?
『枕草子』に描かれた行成の意外な素顔と2人の微妙な関係について見ていきましょう。
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『枕草子』で語られた青年・行成の素顔
清少納言が女房として仕える宮廷生活の様子などを綴った随筆『枕草子』。
そこに登場する花形貴族の男性たちの中で、藤原道長の腹心・藤原斉信に次いで2番目に登場回数が多いのが藤原行成です。
『枕草子』には、若かりし頃の行成と清少納言とのおかしくて甘酸っぱいエピソードが沢山あります。
その① 行成、清少納言にかばってもらう
愛想の悪い藤原行成は、一条天皇の后である中宮・定子サロンの女房たちに全く人気はありませんでした。
ただ1人、清少納言を除いては。
いみじう見え聞えて、をかしき筋など立てたる事はなう、ただありなるやうなるを、皆人さのみ知りたる
(人の目を引こうと評判になるような風雅なパフォーマンスをすることなく、ただ自然体で普通にしているから、人々は彼を並の人だと思い込んでいるだけよ)
行成の本質を理解する彼女は、主人の定子にもそう報告しています。
その② 行成、清少納言の皮肉に冗談で返す
ある時、清少納言は、頭弁(蔵人頭と弁官の兼任者の呼び方)の行成が、ある女房と長話しているのに気づいて、冗談混じりの皮肉を言います。
「何を仲良くお喋りしているの?大弁様(弁官の長官)が来られたらその女房はあなたを放って行っちゃうわよ」
すると行成は笑いながら、
「だから、大弁様がいらしても、私を見捨てないでってお願いしてるんですよ」
と言ったとか。
『枕草子』に登場するのは、そんな快活な青年時代の行成です。
その③ 行成、清少納言じゃなきゃダメだった
頭が冴えてサバサバした性格の清少納言は、行成より6歳ほど年上の女性。
そんな彼女に甘える部分もあったのか、行成が無茶を言って困らせることもたびたびでした。
行成が天皇の中宮・定子に連絡を取る時にはいつも清少納言を中継ぎ役としました。
他の女房ではダメなのです。
清少納言が控え室で休憩中でも、休暇で自宅にいてもお構いなしに、押しかけ、手紙を書いて中継ぎを依頼します。
困った彼女が他の者に連絡するようお願いしても、全く聞き耳を持たなかったワガママぶりです。
その④ 行成、清少納言の寝起き顔を盗み見
平安貴族の女性は、家族か夫など心を許した人にしか顔を見せないのが嗜みでした。
なのに行成は、
「僕たちは仲良しなんだから、顔を見せてよ」
と恋人関係を迫るような爆弾発言をしましたが、清少納言に不器量を理由に断られました。
ところがある早朝、油断をしていた清少納言は、簾の影から自分の寝起きの顔を覗く行成を発見!
「女は寝起きの顔がいいというから来ました。さっきからここにいましたよ。気づかなかったでしょ」
慌てる彼女にけろりと話す行成。
それ以来2人は、御簾の中に入って話す仲になったといいます。
詠むの?詠まないの?藤原行成と清少納言の和歌
行成と清少納言の仲は、親しい友人か、恋人かがはっきりしない、不思議な大人の関係でした。
和歌嫌いの漢詩好き?行成と清少納言の共通の悩み
2人には「和歌嫌い」の共通点がありました。
和歌の家系に生まれた清少納言は、偉大な歌人清原深養父・清原元輔という祖父と父がありました。
行成の父・藤原義孝も有名な歌人。
2人とも有名歌人の2世、3世という目で見られ、自分の和歌で家の名を汚すのを怖れたのでしょう。
行成は和歌の不得手を公言し、清少納言も主人の中宮定子に「和歌を詠まなくてもいい」という許可をもらうほど、歌を避けていたのです。
彼らは漢詩についてよく話題にしていたようです。
強気な清少納言と、失礼な行成の和歌対決「鶏の空音」
これは、行成と清少納言の微妙な関係が描き出された有名な『枕草子』のエピソード
「鶏の空音」です。
ある夜、清少納言の元で雑談を終えた行成は、天皇の物忌み(不浄を避け家に籠もること)に付き合うために夜中に引き上げ、その後清少納言に手紙を届けます。
「名残惜しかった。徹夜で話したかったのに、(夜明けを知らせる)鶏の声にせきたてられてしまって」
まるで一晩共に過ごした恋人が翌朝に送るロマンチックな後朝の手紙っぽいのですが、文は彼の職場の味気ない事務用箋に書かれています。
これは、行成特有のブラックユーモア?
清少納言は漢詩の知識を使って皮肉で返します。
「ああら。夜明けには随分早かったわよ。
鶏の声だなんて、『史記』の孟嘗君のエピソード(*)みたいにウソの鶏だったのかしら」
(*)夜明けに開く函谷関の関所を鶏の鳴き真似で夜明け前に開けさせた逸話
しかし、行成は次の手紙で、函谷関ではなく「逢坂の関」つまり男女の恋の関だ、となおも迫るのです。
行成らしくない妙な展開に、清少納言は、ついに封印していた和歌の実力を発揮します。
夜をこめて 鶏のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ
(夜が明けないのに鶏の嘘鳴きには騙されないわよ。私の恋の関には厳しい門番がいるんですからね)
ピシャリと勝ち気に言い返したこの歌こそ、のちに百人一首にも採用された彼女の代表歌となります。
それに対して行成は・・・。
逢坂は ひと越えやすき関なれば 鶏鳴かぬにもあけてまつとか
(いやいや。逢坂の関はもう廃止されて通行自由です。鶏が鳴かなくたって、開けて待ってるらしいですよ。清少納言さんもそうでしょ?)
非常にダイレクトで、セクハラものの酷い歌を返したのです。
見事に切り返した清少納言の和歌は、後に行成によって殿上人に広められ、彼女はその名を揚げました。
一方、行成は、ひどい出来の歌を、清少納言が黙ってくれていたことに感謝していますが、結局『枕草子』に全て記録されてしまいましたね。
行成は知ってて清少納言に利用されていた?
清少納言が『枕草子』を書いた目的は、彼女の主人、中宮・定子を称えるためだと言われます。
エリート官僚の藤原行成が作品にたびたび登場するのは、定子に宮廷の敏腕官僚という力強い味方がいたことをアピールし、定子サロンの華やかさを記録に残す役割があったのです。
実は、当時の行成は既に結婚していましたし、一度離婚していた清少納言には藤原実方という恋人がいた時期もあり、のちに彼女は20歳ほど年上の人物と結婚しています。
恋人のようにじゃれ合いながらも、利用し、利用されるのを承知でどこか大人の距離を保った2人だったのかもしれません。
きょうのまとめ
今回は、和歌が苦手な点で共感した藤原行成と清少納言の逸話をご紹介しました。
簡単なまとめ
① 清少納言は誤解されがちな藤原行成の実力を認めていた
② 「和歌嫌い」で意気投合の行成と清少納言は、冗談や皮肉でやり込め合うほど親しい間柄だった
③ 百人一首に選ばれた清少納言の和歌は行成に向けられた歌だった
④ おそらく行成と清少納言は、親しいながらも距離を保った関係だった
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