長宗我部元親。
メディアやゲームキャラクターとして取り扱われ、近年高い人気を誇る戦国武将です。
長宗我部元親の居城である「岡豊城」が、2017年に続日本100名城に選ばれました。
岡豊城とはどんなお城だったのでしょうか?
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岡豊城とはどんな城?
続日本100名城に選ばれた岡豊城ですが、そもそも続日本100名城とは?
詳しく見ていきましょう。
続日本100名城とは
「日本100名城」という言葉を知っていますか?
2006年に財団法人日本城郭協会が発表した日本各地の名城100選です。
歴史的価値や建築様式、知名度などを考慮して専門家によって選ばれました。
・兵庫県の姫路城
・京都の二条城
など、誰でも知っているような名城が揃っています。
100名城スタンプラリーなども行っているので、一度くらいは聞いたことがあるかもしれませんね。
その日本100名城に続くものとして、城郭協会50周年を迎える2017年に、全国500城の候補の中から
「続日本100名城」が選定されました。
日本にこんなにたくさんお城があるって、少し驚きですよね。
岡豊城の歴史
標高97メートルの岡豊山に築かれた山城で、鎌倉時代初期に長宗我部氏によって築かれた、
といわれていますが、正確な築城年代は分かっていません。
土佐を管轄していた細川政元が暗殺され、細川家では家督争いが勃発。
土佐の支配力は弱まり、土佐七雄という有力国人が台頭します。
・吉良氏
・安芸氏
・津野氏
・香宗我部氏
・大平氏
・長宗我部氏
1508年、土佐七雄の争いは激化し、岡豊城は落城。
その時の城主であった長宗我部兼序は、土佐国内に亡命し、
1511年に岡豊城主へ復帰します。
元親の時代になると土佐を平定、1585年には四国を統一し、岡豊城は四国の本城となります。
1591年、長宗我部元親が新たに「浦戸城」を築くと、岡豊城は廃城となります。
現在の岡豊城
現在、岡豊城は建物は残っていません。
しかし長宗我部元親によって整備され、元親が居城していた当時の姿を遺構で完全に残しています。
戦国時代の城郭を知る上では非常に重要な遺構(昔の構築物(の一部)が地面や地中に残った跡。)です。
本丸、東に二の段、西に三の段・四の段が配置された縄張りとなっています。
本丸には建物の礎石が残されており、どのような位置に建物が建っていたのか、当時の様子が良く分かります。
土塁や空堀も多少埋まって浅くなっている所もありますが、当時のままです。
削られたり壊されてしまった城も多い中、これだけ当時の姿をはっきり残しているのは、地元の人々に保護されてきたからに他なりません。
豊岡城、しいては長宗我部家への地元の人たちの思いの深さが伝わります。
きょうのまとめ
長宗我部氏が築いた岡豊城についてまとめてみましたが、いかがでしたか?
当時の遺構を完全に残す、とても貴重なお城であることが分かりました。
建物こそありませんが、続日本100名城の名にふさわしい、
すばらしいお城なのではないでしょうか。
近くに行った際には、ぜひ立ち寄ってみたいですね。
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