長宗我部元親とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

戦国大名・長宗我部元親ちょうそかべもとちかについては、戦国時代もののゲームなどでお馴染みでしょうか。

彼がどんな人物だったのか、実際のところをご紹介しましょう。

 

長宗我部元親はどんな人?

プロフィール
長宗我部元親

長宗我部元親
出典:Wikipedia

  • 出身地:土佐国(現在の高知県)
  • 生年月日:1539年
  • 死亡年月日:1599年5月19日(享年61歳)
  • 土佐国の戦国大名で長宗我部氏第21代当主。勇猛な武将としても知られ、一領具足を編成して四国の覇者となった

 

長宗我部元親年表

年表

西暦(年齢)

1539年(1歳)土佐国岡豊城内で誕生

1560年(22歳)長浜の戦いの本戦・戸ノ本での戦いにて初陣を飾る

1574年(36歳)一条家の内紛に介入して、土佐国中村の一条兼定を豊後国へ追放

1575年(37歳)四万十川の戦いで挙兵した一条兼定いちじょうかねさだに勝利。土佐国平定

1582年(43歳)中富川の戦いに勝利して阿波国を配下にする。本能寺の変により織田政権による四国進出はなくなる

1585年(47歳)伊予国攻略成功。一時は四国全土がほぼ支配下となるが、羽柴秀吉による四国攻めで降伏。支配は土佐国一国のみとなる。

1587年(49歳)秀吉の九州攻めに父子で従軍。嫡子・信親が戦死

1590年(52歳)秀吉の小田原城攻めに水軍を率いて従軍

1592年(54歳)文禄の役(朝鮮出兵)に従軍

1597年(59歳)慶長の役(朝鮮出兵)に従軍。領国統治のための分国法「長宗我部元親百箇条」を発布。

1599年(61歳)死没

 

長宗我部元親の生涯

一度は四国の覇者となった長宗我部元親は、時期によってその行動に波のある生涯を送った人物です。

遅い初陣から土佐統一

1539年、長宗我部元親は岡豊おこう城城主である国親くにちかの嫡男として誕生。

母は美濃国・斎藤利長の娘です。

彼の初陣は1560年5月の本山氏と交戦した長浜の戦い

22歳という遅い武将デビューでした。

この戦いや、続く潮江城の戦いでも見事な武功を挙げた元親は、長宗我部家の跡取りとして広く認められます。

6月に父親の長宗我部国親くにちかが急死すると、元親が第21代当主となりました。

一領具足作戦、信長の死で四国の覇者へ

無事家督相続した元親ですが、もともと四国は多くの勢力がしのぎを削る厳しい土地柄でした。

元親は、一領具足いちりょうぐぞくと呼ばれる

「ただ一領(ひと揃い)の具足(武器、鎧)だけを携えて戦う半農半兵の兵士」

を用いて戦力の増強を図り、勢力拡大。

彼らは、農作業で鍛えた精悍な身体と共同作業への慣れから、兵士としての集団行動に順応した重要な戦力となったのです。

長浜の戦いで長宗我部氏に敗戦した本山氏とは、それ以降も幾度かの攻防が繰り返されました。

1564年に、瓜生野城うりうのじょうでの籠城戦の途中で本山茂辰もとやましげときが病死した後、跡を継いで抗戦していた本山親茂もとやまちかしげは1568年に降伏。

これにより、長宗我部元親は土佐中部を平定します。

さらに1575年、四万十川しまんとがわの合戦では、弟の吉良親貞きらちかさだの活躍もあり、一条氏を撃破して土佐を統一したのです。

元親は、中央の織田信長とは同盟を結び、伊予国や阿波国、讃岐国など四国の他の地へと侵攻。

当時、土佐以外の三国は、畿内の権力抗争、領内紛争、抗争などでそれぞれが問題を抱えていました。

元親は、その不安定さにつけ込んで外交や謀略で各地の豪族たちを味方に引き入れます。

そして彼らの主家を降伏させたり、内部崩壊させたりすることに成功したのでした。

こうして長宗我部氏の勢力は四国全土へと広がります。

そんな時、1582年に織田信長は元親との同盟を反古にして四国征伐を狙いました。

しかし、本能寺の変で信長が急死。

おかげで信長に横取りされる心配なく、長宗我部元親が1585年にはほぼ四国全土を統一することに成功したのです。

屈辱の降伏で四国は秀吉のものに

豊臣秀吉

しかし数週間後、今度は羽柴秀吉が元親の四国を狙います。

元親の抵抗にも関わらず、秀吉の10万の兵は、元親の勢力範囲にあった城を次々落城させました。

秀吉の潤沢な兵の前に、ついに元親は降伏せざるを得ませんでした。

その結果、長宗我部家は阿波あわ伊予いよ讃岐さぬきを失い、土佐一国のみの領有となっています。

苦労して四国統一を果たしただけに、悔しい思いをした元親。

しかし、やがて彼は秀吉の人間性に感服し、忠実な家臣へと変わったとも言われます。

1586年、秀吉の九州征伐に父子で従軍した元親でしたが、嫡男・信親が討死してしまいました。

元親は愛息の死に大きなショックを受け、落ち込み、人柄が変わってしまったといいます。

それでも元親は1590年の小田原征伐には水軍を率いて参戦し、さらに1592年以降の秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも従軍。

晩年の1597年には、4男の盛親もりちかと共に豊臣政権下にある大名の分国法『長宗我部元親百箇条』を制定しました。

そして、1598年に豊臣秀吉が亡くなって政情が不安定となる中、その翌年に長宗我部元親も伏見屋敷にて病没。

享年は61でした。

 

長宗我部元親の性格がガラリと変わった転機とは?

元親は、その人生の中で彼の能力・性格に劇的な変化を見せたポイントがありました。

姫若子から鬼若子へ

土佐の長宗我部氏21代当主となる前の青年元親は、背が高く、色が白く、見た目の良い柔和な人物でした。

無口で弱々しいのがどうも戦国武将に相応しくなく、彼に付けられたあだ名は姫若子ひめわこ

実は、父親の国親は、そんな元親に家督を譲ることを不安に思っていたのです。

元親の初陣(1560年の長浜の戦い)が通常より大幅に遅い22歳だったのは、そんな元親の性格のためだったのかもしれません。

実際、出陣前に元親は家臣の秦泉寺豊後じんせんじぶんごに槍の使い方を尋ねたとか。

そんな調子では周囲が元親を頼りなく思ったのも無理はありません。

ところが、戦いが始まると50騎を従えた元親は、槍を持って猛然と敵兵に突っ込み70以上の首級を挙げたのです。

自らも騎馬武者2人の首級を挙げる活躍。

さらに味方の制止を振り切り、スキのあった敵軍・本山氏の潮江城まで奪ってみせたのです。

これ以降元親を「姫若子」と呼ぶ者は無くなり、長宗我部氏家臣たちは彼を鬼若子おにわこと称賛したそうです。

同年に亡くなった父親の国親も安心して元親に家督を譲ったようです。

愛息を亡くしたあとの元親

初陣以降、壮年期の活躍で一時は四国平定まで行ったやり手当主・長宗我部元親。

しかし、彼のダウンタイムは、最愛の嫡男・信親を亡くしたことから始まりました。

1586年、秀吉の九州征伐に元親は嫡男の信親とともに従軍。

ところが、豊後戸次川の戦いで四国勢の大将だった仙石秀久が、敵の島津勢の策にはまり、その混乱で信親が討死してしまったのです。

大将の失敗がなければ、落とさずに済んだ元親の愛息の命。

絶望した元親は自害しようとしたところを家臣に説得され、なんとか思いとどまりました。

しかしその後の元親は、言動において全く精彩を欠き、家中は混乱してしまいました。

特に、家督継承問題では、2男、3男を差し置いて4男・盛親に家督を譲ると強行に決定。

反対する者は、家臣であろうが一族の者であろうが皆殺しにしたのです。

それまで家臣の意見や忠告を聞き入れるような賢明だった元親が、意地を張り、頑固になって家中を混乱させたまま1599年にこの世を去ってしまったのです。

長宗我部氏は、父親の跡を継いで22代当主となった盛親を最後に滅亡しています。

 

長宗我部元親を偲ぶ地

元親にゆかりのある場所を2ヶ所ご紹介します。

長宗我部元親の墓所

伏見で亡くなった元親の遺骨は土佐に送られました。

そして、高知市にある天甫寺山てんぽじやまの南斜面に長宗我部元親の墓があります。

「長宗我部元親の墓」と彫られた石柱が近くにあり、塔の形をした墓石が石の柵に囲まれて建っています。

同地には「兵士の塚」として1600年12月の浦戸一揆で戦死した長宗我部氏の家臣たちも祀られており、元親は彼らと共に、眠っているのです。

<天甫寺山 長宗我部元親の墓 高知県高知市長浜6619>

長宗我部元親初陣の像

高知市の鎮守の森公園には、勇ましい姿の長宗我部元親の銅像があります。

1999年、元親の没後400年を記念した地域興しのために結成された「一領具足会」が中心となって建立しました。

この像は、初陣を迎える22歳の元親が、合戦前夜に若宮八幡宮に陣取った姿を表現しています。

力強く前に伸ばされた左手は、足元に広がる四国を掴もうとする様子を表わしているそうです。

銅像の高さは台座も含め約7m、手に持つ槍の高さは5.7mもあり、迫力いっぱいの勇壮な像です。

<鎮守の森公園 長宗我部元親公銅像 高知県高知市長浜>

 

きょうのまとめ

簡単なまとめ

長宗我部元親とは

① 初陣のときから武勇に秀で、一領具足を活用して勢力の拡大に成功した「鬼若子」

② 土佐一国から四国統一に成功しながらも、豊臣秀吉に奪われた無念の戦国大名

③秀吉の臣下として数々の戦いにも出陣。嫡男を戦で失ってからは精彩を欠き、家中を混乱させながら世を去ってしまった長宗我部氏第21代当主

でした。

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku