長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の家臣である、
中島可之助(なかじまべくのすけ)
という人物を知っているでしょうか?
長宗我部元親の使者として、織田信長に面会した人物です。
彼の何がすごかったのかと言うと、元親の嫡男(ちゃくなん)弥三郎の烏帽子親(えぼしおや)と
四国阿波への侵攻という、元親側の願いをあっさりと信長に認めさせてしまったことです。
中島可之助という人物は一体どんな人なのでしょうか?
中島可之助の交渉術とは?
中島可之助とはどんな人だったのか?
どんなすごい交渉術を使ったのでしょうか?まとめてみました。
身分が低かったのに大抜擢
使者として織田信長と面会した可之助ですが、長宗我部家の家臣の中でも低い身分でした。
可之助もそれを気にしていたようで、「 可 」と言う文字は漢文では必ず一番上にくるので
あえて「 可 」という文字を名前に使っていたそうです。
自分より高い身分や優位に立つ相手に送る使者は、格式の高い身分の家臣を送るのが普通です。
実際、家臣たちは家老を使者にするべきだと主張しますが、
元親は家臣団の大反対を押し切って可之助を使者に選びます。
元親がなぜ可之助を使者にしたのかは、詳しい資料が残っていないため不明ですが、
溺愛していた息子の烏帽子親を依頼する使者に抜擢(ばってき)したのですから、
よほど可之助を信頼していたのでしょう。
結果、交渉は成功したわけですから、元親の人を見る目は確かだったようです。
信長との対面

信長と対面した可之助は、弥三郎の烏帽子親と阿波への侵攻を信長に願い出ます。
信長は可之助に
「 元親は無鳥島(むちょうとう)の蝙蝠(へんぷく)である 」
と言います。
「 鳥もいない島のコウモリである 」と言ったのです。
田舎者だとか、井の中の蛙だとかそのような意味だと言われています。
その信長の言葉に可之助は
「 蓬莱宮(ほうらいきゅう)の寛典(かんてん)に候 」
と答えます。
蓬莱宮とは、神が住むと言われる蓬莱山にある宮殿のことで、寛典とは、寛容とか恩恵といった意味であるとされています。
これを聞いた信長は可之助を気に入り、弥三郎の烏帽子親を引き受け、
自分の「 信 」の一字をとり「 信親 」という名前を与えます。
さらに四国切り取り自由、つまりは四国を好きにしていいよ、というお墨付きまで貰うのです。
天才?偶然?可之助の交渉術
信長との対面の一幕、何がなんだか分かりません。
天才同士にしか分かり合えない何かがあったのでしょうか?
解釈の仕方が文献によって異なっており、
可之助が信長の言いたいことを理解して、即座に返したから気に入られた。
蓬莱宮の寛典の意味を信長も分からなかったが、立場上、意味を聞けなかった。
元親を馬鹿にしたのに、褒められていると勘違いした可之助が、
信長を褒めるような返しをしたのが、おもしろかった。
など様々です。
しかし信長を怒らせることなく、元親側の要求を全て通したことは事実です。
これが中島可之助が実は天才だったのでは?と言われる所以(ゆえん)です。
きょうのまとめ
長宗我部元親の家臣、中島可之助についてまとめてみましたが、いかがでしたか?
家臣は、主である戦国大名の影に隠れてしまいがちですが、
すごい人はたくさんいるのですね。
本当に天才だったのか、偶然だったのか、気になる所です。
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