母里友信とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

黒田孝高くろだよしたか(官兵衛)・長政ながまさの父子2代にわたる家臣だった

母里友信ぼりとものぶ

「黒田二十四騎」「黒田八虎」の一人にも数えられた骨のある武将です。

友信はどんな人物だったのか、その生きざまを見つめてみましょう。

 

母里友信はどんな人?

プロフィール
母里友信

母里友信像(福岡市博物館蔵)
出典:Wikipedia

  • 出身地:播磨国(現兵庫県)
  • 生年月日:1556年
  • 死亡年月日:1615年6月6日(享年60歳)
  • 黒田孝高・長政の2代に仕えた。「黒田八虎」の一人とされる勇将であり、大盃の酒を飲み干して福島正則の自慢の槍「日本号」を手に入れたことで知られる

 

母里友信年表

年表

西暦(年齢)

1556年(1歳)播磨国国人小寺政職の家臣・曽我一信の子として誕生

1569年(14歳)小寺家重臣で姫路城主・黒田官兵衛に仕える。このころより母里姓を名乗ったと考えられる

1573年(18歳)別所家との印南野いなみの合戦で初陣(異説あり)

1580年(25歳)三木城兵糧攻めに従軍

1582年(27歳)
 3月 備中高松城の水攻め
 6月 山崎の戦いに従軍

1586年(31歳)豊前の宇留津城攻めで一番乗りの戦功を挙げ、翌年に6千石拝領

1592年(37歳)文禄の役に従軍

1597年(42歳)慶長の役に従軍

1600年(45歳)関ヶ原の戦いの際、黒田孝高に従い九州で大友義統よしむねを攻め降伏させる。1万8千石の鷹取城主となる。

1601年(46歳)福岡城内に屋敷を構える

1615年(60歳)死没

 

母里友信の生涯

母里太兵衛ぼりたへえの名でもよく知られる人物ですが、当記事では母里友信に統一してご紹介します。

誕生から初陣まで

母里友信は、播磨国妻鹿の国人・曽我一信と母里氏出身の母との間の子です。

父親が小寺政職を主とし、黒田職隆の与力的武将だった関係で、14歳から黒田孝高(官兵衛)に仕官しました。

1569年の青山・土器山の戦いで母里一族24名が戦死すると、家が絶えるのを惜しんだ黒田孝高は友信に母里の姓を与えました。

そのため友信は曽我から母方の母里へと姓を変えています。

初陣は、1573年の印南野合戦と言われ、以来多く戦での先鋒を務める勇将に成長しました。

黒田孝高から息子・黒田長政に仕える

1578年、織田信長に謀反をおこした荒木村重あらきむらしげによって友信の主君・孝高が捕らえられました。

信長は、孝高の裏切りだと誤解して激怒。

それでも友信は孝高を信じて忠誠を誓い、孝高の留守中にも起請文に署名しました。

のちに、同じく「黒田八虎」の栗山利安くりやまとしやす井上之房いのうえゆきふさらと共に、黒田孝高が捕らえられた有岡城に潜入し、主君の安否を確かめる任務も遂行しています。

復帰した孝高のもとで、中国・四国を転戦。

1587年の九州征伐における豊前宇留津城攻めでは、城中一番乗りの戦功を挙げて5千石(後に6千石)を与えられています。
また、

・1592年からの朝鮮出兵(文禄・慶長の役)

・1598年栗山利安・井上之房と共に宇佐神宮造営

・1600年黒田孝高に従い豊後国で蜂起した義兄・大友義統おおともよしむねを降伏させる

などさまざまな活躍を見せました。

関ヶ原の戦い後、長政が筑前国52万石に加増移封となると、筑前鷹取城1万8千石を拝領(うち2千石は息子・友生の拝領)しています。

1606年には益富城の城主となり、この頃黒田長政から但馬守たじまのかみの称号を与えられました。

1608年には長崎・小倉を最短距離で結ぶ長崎街道の難所・冷水峠ひやみずとうげの整備を実行しています。

戦いだけでなく、土地整備などにも活躍した豪傑・母里友信は、1615年にこの世を去りました。

 

「母里」は「もり?ぼり?」それとも「毛利」?

「母里」という姓は「もり」とも「ぼり」とも読めます。

当記事では「ぼり」と読んでいまが、それは母里友信のご子孫の方々が「母里ぼり」を名乗っておられるのにならっています。

実は、友信は晩年に「毛利太兵衛(太兵衛は友信の通称)」と名乗ることもあったようです。

徳川家康が江戸城普請で天守台石垣を担当した友信へをねぎらうために刀を与えた際、その宛名が「毛利」と誤記されていました。

以来、友信は「毛利但馬守太兵衛」と名乗ったのだそう。

「母里」と「毛利」を勘違いした家康に黙って従ったわけですね。

 

酒豪だけではない友信の実像に迫る

武将としての母里友信は、黒田長政に仕える精鋭「黒田二十四騎」の中でも特に重用された譜代の重臣「黒田八虎」の一人。

また挑戦を受けた大盃の酒をあっさり飲んでみせ、福島正則から名槍・日本号を呑み取ったという酒豪でもありました。

豪傑派武将に相応しい彼の逸話をいくつかご紹介しましょう。

豪傑・友信にふさわしい実力・性格そして外見

栗山利安とともに黒田長政の左右の腕となって活躍した友信は、槍の名手で力が強く、生涯で首級を76も挙げたとされ、その数は家中ではナンバー1でした。

忠義に厚い人物ですが、頑固で、正しいと思えば主君を相手にしても遠慮せずにズバズバと直言するという怖いもの知らずなところもあったようです。

そんな彼は、髪の毛も多く、ヒゲも濃く、背の高い大男。

初めてみた人はその姿に驚き、怖れたといいます。

頑固者が言う日本一の山とは?

参勤交代で江戸に向かう旅の途中、ある者が富士山を眺めて

「高く、美しく日本一の山だ」

と言いました。

ところが友信は、

友信
わが国の福智山こそ富士山より高くて美しい、日本一の名山だ

と自慢するのです。

周囲の者は頑固者の友信に逆らうのは無駄なので黙認したため、友信はそれ以降死ぬまで福智山が日本一だと言い張ったそうです。

「それを早く言え」。鷹取城・城主となった経緯

鷹取城の城主となる時、城の石垣の補強を願い出た友信に対し、長政は

「長く持ちこたえる城ではないから、そんなことに人力を費やすのは無駄」

と答えました。

すると友信は

友信
そんな一時的な城の城主になるのはイヤだ

と怒って席を外してしまいます。

そこで、長政は筆頭家老の栗山利安に、

「鷹取城は、本城の福岡城から援軍を待つ間の籠城用の城。だが、友信ならば城を守ることができるから、必要以上に人力を投入しないのだ」

と説明しました。

それを栗山利安から聞いた友信は

友信
それを早く言えばよいではないか

と怒りながらも鷹取城の城主となったいきさつがありました。

母里友信の失言

今度は友信が口を滑らした失敗談です。

黒田長政の嫡男・忠之が4歳の袴着式を迎えた時に、母里友信は励ますつもりで少年に

友信
父君以上の功名を挙げなさい

と言ったのです。

それを知った長政は

「父以上の功名とは何事だ!朝鮮でも関ヶ原の合戦でも武功を挙げた私は、お前たちに見限られるような武将ではない!」

と激怒。

友信を成敗しようとしたところを、またもや家老の栗山利安が間に入って思いとどまらせたそうです。

友信との義兄弟の契りを結んでいた利安も、2人の間に入って気苦労が絶えなかったようです。

 

母里友信の墓所

福岡県嘉麻市にある麟翁寺りんのうじは、母里家の菩提寺です。

寺名は友信の戒名「禪居院殿麟翁紹仁大居士」にちなんだもの。

敷地内には母里太兵衛友信、子の友晴、孫の友清のそれぞれの墓が3基並んでいます。

墓の後方にある樹齢500年の大木と、寺入口の山門に移築されている、かつて友信が城主を務めた益富城の搦手門が、長い寺院の歴史を物語っています。

<母里友信墓所 麟翁寺:福岡県嘉麻市大隈町1023>

 

きょうのまとめ

簡単なまとめ

母里友信とは

① 黒田孝高と長政の父子2代にわたって仕えた忠臣

② 頑固で、主君にも言葉を返すほどの典型的な豪傑

③ 黒田家の精鋭重臣である「黒田八虎」の一人で、生涯で76の首級を挙げた強者武将

でした。

 

豊臣秀吉が「母里太兵衛を家臣にしたい」と黒田孝高に申し入れた時、孝高はそれを丁重に断ったそうです。

心の熱い武将・母里友信は、主君にも大切にされた家臣でした。

 

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku