酒豪でよかった!?武将・母里友信が呑み取った名槍・日本号

 

黒田孝高くろだよしたか(官兵衛)と長政ながまさの2代の主君に仕えた武将

母里友信ぼりとものぶ太兵衛たへえは、槍術そうじゅつに優れた勇猛な人物で、とびきりの酒豪でした。

今回は、そんな彼とは切っても切れない槍・日本号ひのもとごうについてのエピソードを中心にご紹介しましょう。

 

黒田武士の心意気を示した日本号の逸話

福岡県にある福岡市博物館には、天下の三名槍さんめいそうと呼ばれた槍のうちの一つ、「日本号ひのもとごう」が展示されています。

これこそ母里友信が酒を飲んで勝ち取ったという有名な槍なのです。

母里友信が日本号を「呑み取った」経緯

豊臣秀吉の朝鮮出兵である文禄の役(1592年~1593年)と慶長の役(1597年~1598年)の間の休戦中の頃、母里友信は黒田家の使者として京の伏見城に滞在中の武将・福島正則ふくしままさのりへと遣わされました。

秀吉の重臣・福島正則は、「賤ヶ岳しずがたけの七本槍」の一人として知られる猛将です。

黒田長政は、友信に「先方に勧められても、酒を飲むことはならぬ」と厳命していました。

福島正則が大変な酒好きの酒豪だったからです。

母里友信も「フカ」と呼ばれるほどの大酒飲み。

長政は、酒が原因での2人のトラブルを心配していたのでした。

案の定、会うと正則は友信に酒を勧めますが、友信は主君との約束を守って断ります。

しかし、酒好きの正則はどんなに断っても引き下がりません。

「この大盃の酒を飲み干せば、お前が望むものを何でも取らせよう」

そう言って、さらに黒田家の家臣は酒に弱い、情けないなどと家名をおとしめることまで言い出す始末。

そこで友信は覚悟を決め、正則が秀吉から拝領した名槍「日本号」をもらう約束を取り付けて、大盃いっぱいの酒を一気に呑み干してしまったのでした。

正則は酔った勢いでした約束を大後悔しますが、「武士に二言は無い」と友信に自慢の槍を差し出し、母里友信は天下の名槍を手に入れました。

友信は日本号を担ぎ、黒田家の武士たちの間で歌われていた「筑前今様」を吟じながらゆうゆうと帰途についたといいます。

この「筑前今様」が、

「酒は呑め呑め呑むならば 日の本一のこの槍を

呑みとるほどに呑むならば これぞまことの黒田武士」

で知られる「黒田節」の元になったのだそうです。

実は後悔していた福島正則

一方、酔った勢いで大事な槍を失った福島正則は、日本号を諦めきることができませんでした。

友信の主君・黒田長政を介して、日本号と別の物との交換を申し入れるのですが、友信は応じません。

ついには福島正則と黒田長政の間までこじれてしまったんだとか。

見かねた竹中重利たけなかしげとし(秀吉の軍師・竹中半兵衛の従弟もしくは甥)が仲裁し、両者はお互いの兜を交換してようやく和解したのでした。

 

日本号とはどんなスゴイ槍?

日本号は、槍を手掛ける刀工なら、生涯に一度は写しを作ることに挑戦するとまで言われる究極の美しさを持つ槍でした。

無銘(作者不明)ですが、大和国金房かなぼう派の作と考えられています。

元々は御物ぎょぶつ(皇室の所蔵品)でした。

槍であるにもかかわらず、上流貴族に与えられる正三位しょうさんみの位階を賜った伝承から、「槍に三位の位あり」と謳われたほどの品。

正親町おおぎまち天皇から足利義昭あしかがよしあきに下賜され、織田信長、豊臣秀吉、福島正則へと渡ったものでした。

友信が手に入れた後も母里家に代々伝わっていましたが、明治期の紆余曲折を経て、1920年には母里家の主家だった黒田家に寄贈されました。

日本号は1978年にさらに黒田家から福岡市に寄贈され、現在は福岡市博物館の所蔵品として常設展示されています。

<サイズ>
(刃部分):79.2cm、
なかご(柄に埋め込まれる部分):80.3cm、
全長(こしらえ部分を含む):321.5cm
総重量:2.8kg
意匠:刃中央の溝部分に倶利伽羅くりから龍の浮彫り

現在は青貝の螺鈿鞘らでんざやと柄が付属していますが、かつては熊毛の毛鞘けざやに総黒漆塗の柄だったそうです。

<呑取り日本号 福岡市博物館:福岡市早良区百道浜3丁目1番1号>

 

日本号を持つ母家友信の像

黒田節の歌となった母家友信と日本号の逸話は、福岡の人々の誇りです。

友信は銅像となり、今も福岡市民に愛されています。

光雲神社の母家友信像

福岡市内の西公園には、黒田孝高と長政父子が祀られた光雲てるも神社があります。

第6代福岡藩主・黒田継高つぐたかが、福岡城内に黒田孝高と長政父子を祀ったのが始まりです。

現地へ移転した後に戦争で焼失し、1966年に再建されました。

ここに、右手に名槍・日本号を持ち、左手に大盃を持った母里友信の等身大の銅像が建っています。

銅像下部には民謡「黒田節」の歌詞も刻まれています。

<光雲神社 母里友信像:福岡県福岡市中央区西公園13-1>

博多駅の母里友信像

友信の銅像はもう一つ博多駅博多口駅前にあります。

光雲神社の銅像とは少々ポーズが違いますが、右手に大盃、左手に槍を持って立つ銅像です。

駅前のミーティングポイントとして市民に親しまれています。

<博多駅前 母里友信像:福岡県福岡市博多区博多駅中央街1-10>

 

きょうのまとめ

今回は、母里友信と天下の名槍・日本号のエピソードをご紹介しました。

簡単なまとめ

① 母里友信は福島正則から名槍・日本号を呑み取り、それが民謡の「黒田節」に歌われている

② 美しい意匠の日本号は、かつて皇室の所有で正三位の位階まである高貴な槍だった

③ 母里家に伝わった日本号は、人を経て黒田家に渡り、現在は福岡市立博物館に寄贈されている

 

この母里友信と福島正則のエピソードを知ると、お酒好きというのも本当に「善し悪し」だと思わざるを得ませんね。

 

 

その他の人物はこちら

安土桃山時代に活躍した歴史上の人物

関連記事 >>>> 「【安土桃山時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」

時代別 歴史上の人物

関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」

 










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

5 × one =

ABOUTこの記事をかいた人

歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku