オットー・フォン・ビスマルクとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

プロイセン王国の首相となり、当時バラバラに小国が乱立していたドイツを統一していった

オットー・フォン・ビスマルク

軍事力を強化し、戦争に勝利することで改革を推し進めていくその政治手法は「鉄血政治」と呼ばれ、人はしばしば彼のことを「鉄血宰相」と称します。

ドイツを統一し、ドイツ帝国の初代首相となったあかつきには、約20年にも渡り、ヨーロッパを平和へと導きました。

その功績からドイツでも英雄と呼ばれることの多い、ビスマルクは一体どんな人だったのでしょう。

彼の生涯を通じて、その人物像に迫っていきます!

 

オットー・フォン・ビスマルクはどんな人?

プロフィール
オットー・フォン・ビスマルク

出典:Wikipedia

  • 出身地:プロイセン王国ザクセン県シェーンハウゼン(現在のドイツ北部)
  • 生年月日:1815年4月1日
  • 死亡年月日:1898年7月30日(享年83歳)
  • 鉄血宰相の異名を持つ、ドイツ帝国初代首相。小国が乱立していたドイツを3度の戦争で統一した。卓越した政治手腕で、以後約20年にも渡ってヨーロッパに平和をもたらす。

 

オットー・フォン・ビスマルク 年表

年表

西暦(年齢)

1815年(1歳)プロイセン東部の町・シェーンハウゼンにて地主貴族の息子として誕生。

1835年(20歳)文官になるため、ゲッティンゲン大学やベルリン大学にて法学を学ぶ。

1839年(24歳)大学卒業後、官吏(役人)となったものの、職務になじめず、地元に戻って地主の仕事をすることに。

1847年(32歳)プロイセン連合州議会の代議士として政界入りを果たす。国民主導を訴える自由主義派に対し、批判を示す立場を取った。

1851年(36歳)プロイセン全権公使となり、外交官に転身。オーストリアとの利害対立の最前線に立たされることで、ドイツ統一の重要性を痛感していく。

1862年(47歳)国王・ヴィルヘルム1世の任命でプロイセンの首相になる。予算が立たない中、軍事力強化を強行する姿勢を示す。このときの演説が「鉄血演説」と呼ばれ、後の異名へと繋がった。

1864年(49歳)オーストリアと共に「対デンマーク戦争」を行い、併合されそうになっていたシュレーヴィヒ公国、ホルシュタイン公国を取り戻す。

1867年(52歳)オーストリアとの普墺戦争にわずか6週間で勝利。デンマークから取り戻した領土を完全にドイツのものにし、北ドイツ連邦を樹立。

1870年(55歳)スペインの王位継承問題を利用し、フランスを挑発。普仏戦争を勃発させる。

1871年(56歳)普仏戦争に勝利。フランスからの圧力を受けていた南ドイツを平定し、ドイツ帝国を樹立する。同時にドイツ帝国初代首相に就任。

1873年(58歳)ロシア、オーストリアと三帝協定を結ぶ。

1882年(67歳)オーストリア、イタリアと三国同盟を結ぶ。

1887年(72歳)イギリス、イタリア、オーストリアに地中海協定を結ばせる。同年ロシアとの独露再保障条約を結ぶ。

1890年(75歳)ヴィルヘルム2世がドイツ皇帝に即位。新皇帝と折り合いがつかなくなり、首相を辞任する。

1898年(83歳)妻ヨハンナが亡くなって以来、気力をなくし体調を悪化させていく。最後は肺の充血によって死没。

 

政治家になる前のビスマルクは?

32歳のときに政界入りを果たしたビスマルクですが、それまで役人を務めるも反りが合わず、地元に戻って地主の仕事を継ぐといった流れも見られます。

政治家といわれると真面目で厳格なイメージを持ちますが、若いころのビスマルクは必ずしもそうではなかったようです。

語学や表現力に優れた学生だった

1822年、ビスマルクは7歳になると親元を離れ、ベルリンの全寮制学校プラーマン学校へ通い始めます。

ビスマルクはこのプラーマン学校には5年間通いますが、貴族出身の者に対する差別などがあり、あまりいい思い出は残っていないようです。

その後1827年からは同じくベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム・ギナジウム、次いでグラウエン・クロスター・ギナジウムに在学。

このときに語学に対する才能を発揮し、ラテン語、フランス語、英語など、多言語を習得していきます。

またドイツ語を使用する国語の授業においても、「表現力に優れている」と高い評価を得ています。

ドイツ統一の後、ヨーロッパに平和をもたらした「ビスマルク体制」は、彼の抜きんでた外交力によるものでした。

やはり若い頃から、外国語など、言葉を操ることに長けていたのですね。

勉強は苦手!他者とのコミュニケーションの場を好んだ

1832年からは文官になるため、ゲッティンゲン大学、ベルリン大学に在学することになります。

大学時代の彼はどうだったのかというと、勉強に関してはまったく興味を持てず、上流階級の人たちが集まる社交界への参加に熱中していたとか。

また勉強は嫌いだったものの人と議論を繰り広げることを好み、読書で教養を身に付けるなどは好きだったようです。

お堅い勉強よりも、他者とのコミュニケーションに重きを置いていたのですね。

ビスマルクが隣国と良好な仲を保てたのも、そういった彼の人となりが影響していたのでしょう。

役人の仕事が肌に合わず遊び惚けていた?

1836年には、晴れて試験に合格し、アーヘン県庁にて行政官試補を務めるようになります。

しかし、やはりお堅いお役所仕事はビスマルクの肌に合わなかったようです。

彼は外交官になりたがっていましたが、それも県知事や外務省からは認められず。

語学にも、表現力にも優れるビスマルクにとって、外交官という職はピッタリだと思うのですが…。

そのまま行政官試補を続けていたビスマルクは、英語が上手だったこともあり、イギリス人女性と交際するようになります。

なんでも仕事そっちのけで女遊びにかまけており、交際費を稼ぐためにギャンブルをして、借金まで抱えていたんだそうな。

女性と遊ぶために独断で休暇を取るなど、まさに役人の風上にも置けない状態…。

1839年には、退職して地元へ帰ることになります。

ビスマルクが3年しか文官を務められなかった理由も、その勤務態度を見れば明らかですね。

後にドイツの英雄になるなんて、このとき誰が思ったでしょうか…。

 

ビスマルクの内政

ビスマルクの功績といえば、ドイツの統一やビスマルク体制といった外政に目がいきます。

しかし首相の役目は何も外政ばかりではありません。

ビスマルクはドイツ国内においては、どのような政治を行っていたのでしょう。

文化闘争や社会主義者鎮圧法の失敗

ようやくまとまりつつあった国家を維持するため、ビスマルクは国内でもそれを脅かす危険要素は排除しようとする動きを見せています。

まずカトリック系のキリスト教徒はオーストリアやフランスに人口が多く、それらの国と結びついて国家の脅威となり得る可能性がありました。

それを懸念してカトリックを弾圧したのが「文化闘争」です。

しかし文化闘争は政治改革というよりも宗教弾圧だったため、カトリック教徒以外からも反発を受け、結局失敗に終わっています。

そして公の場で「大崩壊」を口にするなど、革命を起こそうとするきらいのあった社会主義派も、ビスマルクは「国家の敵」と見なしていました。

このいきさつから、社会主義者の活動を禁止する社会主義者鎮圧法が制定されます。

しかし禁止されれば余計に火が付くということでしょうか…社会主義派は秘密裏に活動し、その勢いは衰えることはなかったのです。

文化闘争や社会主義者鎮圧法の例を見ると、内政に関してはあまり上手くいっていなかった…といわざるを得ません。

労災保険法や障害・老齢保険法など、現在のドイツに通じる法の制定も

しかしそんな内政においても、現在のドイツにも続く法案を制定している例もあります。

労働者が安心して働けるようにと制定された「労災保険法」や、障害や高齢で働けなくなった人たちに年金が支給される「障害・老齢保険法」などです。

いずれにしてもビスマルクの行った政治は、総じて国家を守っていこうとする姿勢が表れたものであることに変わりはありませんね。

 

きょうのまとめ

ドイツ統一の功績や、優れた外政で今も英雄視されるオットー・フォン・ビスマルク。

しかし勉強やお堅いお役所仕事は苦手、内政では失敗も多かったなど、欠点も目立つのは少し意外でしたね。

今回の内容を簡単にまとめると…

① 語学や表現力、コミュニケーションに長けるが、お堅いお役所仕事は合わなかった

② 外政では多くの功績を残したが、内政では失敗も多かった

③ 行われた政策は、いずれも統一したドイツを守るためのものだった

といったところです!

紹介してきた通りビスマルクは、決して完璧な人間ではありませんでした。

そんな彼がヨーロッパ諸国に平和をもたらしたのは、やはり「国民を守ろう」という意志の強さからだったのでしょう。

 

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