愛新覚羅溥儀の子孫は日本人?日中友好の懸け橋となるその人物とは

 

中国清王朝の最後の皇帝、そして日本が占領した満州国の皇帝…挙句は戦犯として囚われの身になるなど、激動の人生を送った

愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)。

大ヒット映画「ラストエンペラー」の題材となったことでも有名ですね。

中国と日本の両方の立場を経験しているこの人物の存在は、現在の日中関係を語る上で欠かせません。

何を隠そう、愛新覚羅一族の子孫にあたる福永嫮生(ふくながこせい)さんは、現在も日本に暮らしています。

今回は溥儀本人ではなく、日中の親交の証ともいえる嫮生さんについて、詳しく紹介していきましょう。

 

愛新覚羅家の血を引く日中の架け橋

溥儀の子?

嫮生さんは愛新覚羅家の血は引いていますが、実は溥儀の子ではありません

溥儀は生涯で5人の妻を持っていますが、子供には恵まれませんでした。

溥儀には1歳年下の溥傑(ふけつ)という弟がおり、嫮生さんはこの溥傑の次女として生まれたのです。

溥傑は日本に留学しており、1937年に日本人の嵯峨浩(さがひろ)さんと結婚。

同時に兄の溥儀が皇帝を務めていた満州へ渡ります。

後に長女の慧生(えいせい)、次女の嫮生が誕生しました。

ちなみに長女の慧生さんは1957年に日本人の恋人と共に心中。

天城山心中事件と題し、「天国に結ぶ恋」などと報道されて、話題となりました。

一方、嫮生さんは現在、兵庫県西宮市で暮らしていて、自身の体験に基づいた講演をするなど、日中の友好を訴える活動をされています。

満州国崩壊によって1年5ヵ月に渡って流転の身に

1945年、日本が降伏し第二次世界大戦が終戦を迎えると、同時に日本の領土となっていた満州国も崩壊。

溥儀と溥傑は、このとき日本に亡命しようとしますが、ソ連によって拘束されてしまいます。

満州で溥傑と共に暮らしていた嫮生さんはどうなったかというと、母の浩さんと中国に残ることになりました。

日本からの誘いを断り、浩さんが中国に残る決意をしたのは、残された皇后を守るため。

このとき皇后はアヘン中毒に侵されており、身の周りのことも十分にできない状況でした。

多くの人が皇后のお世話を敬遠する中、浩さんは親身になって皇后を支え続けたといいます。

満州国の皇帝の一族だった嫮生さんたちは、中国からしてみれば「日本に加担した裏切り者」です。

よって中国共産党に捕らえられた嫮生さん一行は、軍に拘束されたまま中国東北部を転々。

1年5ヵ月にも渡って流転の身となりました。

その間に同行していた日本人が中国軍への反撃に失敗したことによる「通化事件」など、数々の修羅場を経験。

砲弾が飛び交う中、幼い自分に対し、身を挺して守ってくれた日本兵、中国兵が周囲にはいたと語っています。

その後嫮生さんは1947年に元軍人の日本人に救出され日本へ

多くの命が失われたこの日々の経験こそが、嫮生さんが今尚、日中友好を訴え続けている、大きな動機となっているのでしょう。

 

嫮生さんの語る溥傑の人物像

愛されていた溥傑

1961年になると、釈放された溥傑と浩さん、嫮生さんの親子が北京にて再会を果たします。

浩さんはそのまま溥傑と共に北京に移住。

嫮生さんは一人、日本に帰化することになります。

満州国崩壊のときにしても、浩さんは中国に残ることを決めました。

こういったことから、彼女の忠義を貫く人柄や、よほど溥傑のこと、愛新覚羅家のことを愛していたことが伝わりますね。

それほどに浩さんから愛されていた溥傑についても、どんな人物だったかを嫮生さんは語っています。

なんでも溥傑は口癖のように「モノに執着してはいけない。ご縁があった人たちを大切にしなさい」といっていたようです。

溥傑は皇帝の実弟という、絶対的な権力を有する立場にありながら、私欲ではなく、人の縁を大切にする人物だったのです。

溥傑が大切にしていた「人の縁」を物語る逸話

中国の病院に溥傑が入院していたときの話。

溥傑とは一度だけ会ったことがあるという3人の若い兵士たちが、遠方の地から列車で二日間かけて会いに来たといいます。

兵士たちいわく、「病気だと聞いて心配でたまらなくなった」とのこと。

一度会っただけの人たちにそこまで慕われているのです。

溥傑のいっていた「ご縁があった人たちを大切にしなさい」という言葉が、単なる綺麗ごとではなかったということを感じさせられます。

どんなに苦しい想いに遭おうとも、浩さんが溥傑に添い遂げようとした理由もそこに垣間見えますね。

 

きょうのまとめ

自身の経験から、日中友好を強く訴える福永嫮生さん。

その想いは戦争の悲惨な過去だけでなく、母の浩さんと父親の溥傑の愛の深い関係を目の当たりにしていたことからも、きているのでしょう。

同じように満州に移住するほど溥傑が慕っていた、兄の溥儀もまた人格者だったのではないでしょうか。

2歳という年端も行かない頃に王位が継承されたとはいえ、約300年続いた清王朝皇帝として、その血はしっかりと息づいているのです。

今回の内容を簡単にまとめると…

① 溥儀に子供はいないが、弟溥傑の娘、嫮生さんが今でも日本で日中友好に尽力している

② 嫮生さんは終戦による満州国崩壊で、1年5ヵ月に及ぶ流転の苦行を強いられた

③ 溥傑・浩さんの夫婦は日中友好の懸け橋を表しているかのよう

といったところでしょうか。

戦争のない平和な現代では、その恐ろしさにもいまいちピンとこない部分があります。

だからこそ、二度と繰り返してはいけない事実として認識するためには、嫮生さんのような語り部が必要なのでしょう。

 










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