今年2018年の大河の主役は薩摩発日本でとても愛される英雄西郷隆盛。
その10回前の大河の主役はだれかというと
天璋院篤姫です。
ちなみにさらに10回さかのぼると、徳川慶喜。
何かそういった“流れ”のようなものがあるのでしょうか。
ちなみにさらに10回前は春日局です。
幕末に島津の女として生まれ、徳川の正妻となり、反目しあうその二大勢力の中にあって芯強く生き抜いたその後ろ姿を追ってまいりましょう。
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篤姫はどんな人?
- 出身地:薩摩藩鹿児島
- 生年月日:1836年2月5日
- 死亡年月日:1883年11月20日(享年47才)
- 薩摩島津家に生まれ、徳川将軍家定の正妻になった。幕末・明治に徳川のために生きる
篤姫の年表
1836年(0才)篤姫生まれる
1853年(17才)篤姫が島津斉彬の養女となる
1856年(20才)篤姫が徳川家定の御台所(みだいどころ。正妻)となる
1858年(22才)徳川家定、島津斉彬、あいついで亡くなる
1867年(31才)大政奉還。江戸城無血開城
1883年(47才)篤姫亡くなる
徳川家定に嫁入り
篤姫は島津の分家今和泉の娘として鹿児島に生まれました。
そんな九州南端の陽光明るく、温暖な風土。
しかし、大いなる世の奔流はそんな一少女をも飲み込まずにはいられません。
そのころ、江戸で将軍になっていたのは第13代徳川家定です。
当時、薩摩藩主だったのは篤姫の従兄島津斉彬。
斉彬は篤姫を養女とすると、その3年後に幕府への政治進出の手段として徳川家定の御台所に送り込みます。
といっても、さすがに篤姫が分家出身とあっては将軍家との家格の問題があります。
そこで、斉彬は「篤姫は自分の娘である」とうそをつくことにしました。
嫁入りしたらすぐ……
そもそも徳川家定の祖父家斉はものすごく子だくさん(53人と言われます)!
その御台所が島津出身の広大院。
そのご利益にあずかろう、という理由づけ。
ですが家定は結婚してわずか2年で亡くなり、養父斉彬までもが追うように急死してしまいます。
こういういきさつの中、薩摩藩は篤姫に対し、
「藩に帰るように」
と申し出ます。
しかし、篤姫は頑と断りました。
幕末の篤姫
新将軍家茂の御台所であり、皇女の和宮とは最初、かなり馬が合わなかったらしいですね。
ただ世の激動はいよいよ大きなうねりとなり、ついに徳川がその根底から音を立てて崩れさってゆきます。
家茂の夭折(若くして亡くなること)後、篤姫の大嫌いだった徳川慶喜が将軍を継ぎます。
「徳川」のための嘆願活動
しかし、倒幕に燃える薩摩や長州などの勢いをおしとどめることができず、
・王政復古の大号令
・鳥羽伏見の敗戦
それは西からドミノ倒しのようにせまってまいります。
が、篤姫はすでに徳川の女。
かつてはしっくりこなかった和宮とも協力し、その縁故である薩摩、朝廷などをたよって
・徳川慶喜の助命
の嘆願運動をおこないます。
こうして戊辰戦争は幕府側の敗戦で終わり、ついに時代は明治へと移り変わります。
明治になってからの篤姫
篤姫らの活動のかいあってか。
幸い、
・徳川慶喜の助命
は新政府に聞き届けられることとなりました。
しかし、篤姫は以後も薩摩藩からの援助を断ります。
そして、「徳川の女」としてそのゆかりの者たちへの援助や口利きに自分の身をも削り続けます(たとえば、篤姫が亡くなった時にその所持金は今の価値で6万円ほど)。
徳川宗家を継いだまだ幼い16代家達にはしっかり英才教育をほどこし、イギリスに留学をさせます。
一方で、大奥にいたころと打って変わってかなり自由気ままに生きたようですね。
ある時は、勝海舟と料亭や芝居小屋、遊郭に入ったり。
ある時は、洋装にドレスアップしてみたり。
またある時は、亡くなった和宮をしのんで箱根に1カ月の旅に出る時は開通して間もない鉄道に乗ったり。
そして、かつてのスーパーセレブレティな暮らしを捨てて倹約や家事にいそしむようにもなりました。
47才の時、脳溢血で倒れ、帰らぬ人となります。
その死後は徳川の菩提寺(一族をまつる寺)である「上野の寛永寺」家定の墓の近くに葬られ、その葬儀には彼女を慕う1万人もの人々が沿道につめかけたといいます。
きょうのまとめ
思いがけぬ波乱万丈の人生。
ただ、実に一途に力強く生きた人です。
① 篤姫は江戸の政治の都合で徳川家定と政略結婚した
② 篤姫は倒幕の嵐が吹き荒れる中、和宮らとともに徳川の救済に奔走した
③ 篤姫は明治になってからも徳川ゆかりの者のために尽力し、その葬儀にはたくさんの人がつめかけた
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