北条氏綱とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

戦国時代、関東に覇を唱える北条氏。

その第2代当主、北条氏綱とはどんな人物だったのでしょうか?

後北条の創始者北条早雲。

武田信玄、上杉謙信らと肩を並べて存在感を示した北条氏康。

名実ともに有名な2人に挟まれる形になる氏綱は、存在感が薄くなってしまいがちです。

しかし、組織を永続させるカギを握っているのは、2代目如何にかかっているともいわれていることから、

100年続くことになる後北条にとって、氏綱が重要な役目を果たしたことは間違いありません。

北条氏綱はどんな人?

  • 出身地: 相模国(現在の神奈川県の一部)
  • 生年月日: 1487年
  • 死亡年月日: 1541年8月10日(享年 55歳)
  • 後北条の関東覇権の基盤を築いた第2代当主。子の氏康へ残した「 五箇条の御書置 」は、名言集としても有名。

北条氏綱 年表

北条氏綱の年表を見ていきましょう。

年表

西暦(年齢)

1487年(1歳)相模国に生まれる。(幼名、伊豆千代丸)

1495年(9歳)父、早雲が小田原城を奪取。

1518年(32歳)家督を相続。

1519年(33歳)父、早雲が死去し、名実ともに伊勢(後北条)氏の当主となる。

1523年(37歳)伊勢から北条に改姓する。

1525年(39歳)岩付城を攻め落とし、武蔵国南部を支配下にする。

1536年(50歳)同盟関係にあった今川が、敵対していた武田と結ぶことによって(甲駿同盟)、駿相同盟が破綻。これによって、早雲の代からあった今川氏との主従関係が解消され、名実ともに北条は独立を果たす。

1538年(52歳)第一次国府台合戦。小弓公方を称していた足利義明と里見氏の連合軍を破り、下総国への勢力基盤を築く。

1541年(55歳)死没。

伊勢氏から北条氏への改姓

父、早雲の死後、氏綱は武蔵国(現在の東京都、埼玉県及び神奈川県北東部)をめぐって対立する扇谷上杉家が、足利義明を支持する立場を同じくしていたため、軍事行動を控えていました。

この間に、氏綱は伊勢氏から北条氏(後北条氏)へ改姓したとされています。

これは、伊豆に侵攻し相模も平定した父、早雲が、幕府の承認を受けていたとはいえ、旧来の山内・扇谷(おおぎがやつ)両上杉氏をはじめとする勢力からは、侵入してきた反逆の徒として反発を受けていた事に対し、執権北条氏の後継者だということを主張する狙いがありました。

北条氏は伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族であったため、関東においてゆかりが深く、自分たちがその後継者であると認知させることが、その後の勢力拡大には欠かせないとみたのでしょう。

これまで、単に北条を自称したと思われがちだったのですが、近年の研究では、朝廷に願い出て正式に認められたものであると考えられています。

単なる自称による改姓では、領民の心服も得られませんし、その数年後に、執権北条氏と同じ左京大夫に任じられていることから、正式に認められた改姓とするのが妥当でしょう。

これによって、勢力を拡大していくのに重要な家格の面で、今川氏や武田氏、上杉氏と同等となるのです。

着実に関東圏への勢力を拡大した北条氏綱

北条氏への改姓に合わせる形で、氏綱は勢力地域の拡大を着々と進めていきます。

この動きに危機感をもった扇谷上杉朝興(ともおき)は山内上杉家と和睦して対抗しようとしますが、氏綱はこれを撃破し、勢力圏を拡大していくのです。

しかし、氏綱の優勢は、周辺大名を結束させる形に動いていくことになります。

四面楚歌に陥る北条氏綱

扇谷上杉朝興は山内上杉憲房(のりふさ)の支援で態勢を立て直し、古河公方(こがくぼう)足利高基(たかもと)と和睦。

加えて甲斐の武田信虎と結び、万全の態勢で反撃を開始することになるのです。

更に朝興は、上総国(かずさのくに)の真里谷武田氏、小弓公方(おゆみくぼう)、安房国(あわのくに)の里見氏とも手を結んで包囲網を形成します。

これによって氏綱は、四面楚歌の状況に追い込まれることになるのです。

後北条包囲網
上杉朝興、足利高基(古河公方)、武田信虎(甲斐) 、真里谷武田氏(上総国)、小弓公方、里見氏(安房国)

vs

北条氏綱

敵陣の内紛によって窮地を脱する

1533年、里見氏において、4代目当主の里見義豊が叔父の実堯(さねたか)を粛正するという内紛が起きます。

これは実堯が嫡男義堯(よしたか)の家督相続を正当化しようとする動きに対して、義豊が行ったものです。

氏綱は義堯を援助する形でこの内紛に介入し、義豊を滅ぼさせ、義堯は安房国里見氏の5代目当主になります。

これによって里見氏は、後北条包囲網から脱落することになるのです。

加えて、真里谷武田氏でも内紛が起きたため、その支援を受ける小弓公方の勢力も弱まるという状況となり、氏綱は四面楚歌の状況を抜け出ることになります。

後北条包囲網
上杉朝興、足利高基(古河公方)、武田信虎(甲斐) 、真里谷武田氏(上総国)小弓公方里見氏(安房国)

vs

北条氏綱

里見氏: 内紛により包囲網より離脱
真里谷武田氏: 内紛により包囲網より離脱
小弓公方: 真里谷武田氏の支援を受けていたため、真里谷武田氏の内紛により勢力が弱まる

四面楚歌を脱し攻勢へ転じる氏綱

周りが皆敵という窮地を脱した氏綱は、上杉朝興が死去して、まだ10代前半だった朝定(ともさだ)が跡を継ぐのを好機とみて武蔵国に出陣し、扇谷上杉家が本拠としていた河越城を奪取することに成功します。

更にその翌年には、葛西城を陥落させ、房総へ勢力を拡大する足掛かりを築くことになるのです。

第一次国府台合戦

北条氏綱による、葛西城の奪取は、小弓公方・足利義明にとって直接的な脅威となるため、扇谷上杉に援軍を送って、氏綱と全面対決へと向かいます。

一方、北条の房総地域への進出は、小弓公方と対立する古河公方・足利晴氏にとっては利害が一致したため、晴氏は氏綱・氏康親子に対して小弓御退治を命じることになるのです。

一旦は、氏綱に恩を受け北条包囲網から外れた里見義堯でしたが、北条の動きに危機感を抱き、これを機に房総諸将及び足利義明と連合して、全面対決へと向かうことになります。

これが第一次国府台合戦(こうのだいかっせん)です。

この合戦で、足利・里見連合軍に大勝した北条は、義明を討ち取り小弓公方を滅ぼします。

これによって、武蔵南部から下総にかけて勢力を拡大することに成功し、更に氏綱は、娘(芳春院(ほうしゅんいん))を足利晴氏に嫁がせて、古河公方との結びつきを強めることで、関東地域の旧来勢力に対抗する盤石政治的基盤を形成することになるのです。

今川氏との決別と独立

氏綱は、関東圏へ勢力を拡大する動きの一方で、父・早雲の時から形式的な主従関係にあった今川氏との駿相同盟によって、甲斐国の武田信虎とも争っています。

今川第10代当主の氏輝が急死して、家督をめぐってお家騒動(花倉の乱)が勃発した時、氏綱は後に第11代当主となる今川義元を支持。

しかしその翌年、義元は武田と婚姻関係を結び、甲駿同盟を成立させます。

この動きに対し、氏綱は駿相同盟を破棄して、駿河国の河東地方へ侵攻し、占領。

これによって、形式的ではあったものの、今川氏との主従関係が解消され、完全な独立を果たすことになるのです。

まとめ

北条氏綱について書いてきましたが、いかがでしたでしょうか。

あまり詳しく書かれることのない北条の第2代当主ではありますが、100年の繁栄を誇る後北条にとって、発展の基盤を築いた重要な存在だったことが感じられたのではないでしょうか。

以下に簡単にまとめてみます。

①伊勢氏から北条氏への改姓をする

②関東圏の旧来勢力に対抗する政治的・軍事的基盤を築く

③今川氏との主従関係を解消し独立を果たす

氏綱はその死に際し、子の氏康に対し「 五箇条の御書置 」を残しています。

その内容は、義を重んじ、人を大切にし、分をわきまえ、倹約を重んじ、勝ちに驕ることがないようにと、訓戒したものです。

立ち上げたばかりの事業を、軌道に乗せ、発展させる基盤を築くのは、辛苦の連続といえます。

その役割を果たした氏綱が、子の氏康に伝えた訓戒には、それが集約されているといえるでしょう。

現在でも、ビジネスシーンで、氏康のこの訓戒が名言として取り上げられる理由も、ここにあると思われます。

 
勝って兜の緒を締めよ。北条氏綱の名言はこちら

 










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