鎌倉幕府や江戸幕府と比べるとちょっと印象の薄い
足利尊氏の作った室町幕府。
どーんとしていない、というか。
室町幕府に関する基本的なこともよく知られていませんね。
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室町幕府はどこ?
一体どこに幕府があったのか。
それさえもはっきり私たちに刷り込まれていない室町幕府。
この際、しっかり知っておいて損はありません。
室町幕府という呼称の理由
室町幕府と呼ばれるようになったのは、第三代将軍・足利義満の時代に、花の御所が建てられた場所が室町だったからです。
室町通りに面するように正門が設けられたことから室町殿、室町第とも呼ばれました。
では、尊氏はどこに幕府を作ったか?
えっ、尊氏の時から室町に幕府はなかったの?
と思う方もいらっしゃるかも知れません。
そう、尊氏は武家政権を開いたときには、室町に住んでいません。
南朝の後醍醐天皇と対立して北朝を後見するために、京の中でも御所に近い二条高倉に住んだのです。
だから、もちろん尊氏も自分が樹立した幕府を「室町幕府」とは呼んでいません。
その時代に生きた人々は「今は室町時代よね」などと思ってはいなかったわけです。
これらの呼称は全て後世の人々によるものです。
室町幕府はどうして京都に置いたのか
室町幕府ができるまで鎌倉に幕府があったんだから、鎌倉じゃダメなの?
という疑問がありますが、それなりの理由があったのです。
1. 南朝として吉野(奈良県)に君臨する後醍醐天皇の活動の監視と牽制のため
尊氏が幕府を創設したころは、後醍醐天皇もまだアクティブ。
吉野を発信地にして何をするかわからなかった天皇の動きを常に把握している必要がありました。
2. 室町幕府の正当化のために、奉じた天皇の側にいる方が都合がよかったから
南朝に後醍醐天皇があったように、足利尊氏側の北朝には光明天皇があり、その奉じた天皇の側にいたほうが後見しやすかったのです。
3. 幕府の設置場所としてまずは京都に設置したのがそのままになったから
確かに、室町幕府成立の際には京都か鎌倉か、の二つの意見があったとされています。
結局室町幕府+鎌倉府という形で進行していき、関東は鎌倉府の影響力が強くなります。
もともと源頼朝の時代から源氏の勢力が強く、新生幕府として東国政治に深くはいりこむことは難しかったようです。
室町幕府の落ち着きが悪いのはなぜ
室町幕府が始まったとされるのは、足利尊氏が征夷大将軍に任命された時だとされています。
しかしその時、将軍家そのものが不安定でした。
幕府が出来上がるとすぐに尊氏と直義の兄弟による争い「観応の擾乱」が起きています。
しかも後醍醐天皇の南朝もまだ勢いがありました。
3代将軍足利義満の時代になるまでは足利家自体がどうなるか先行きが見えていなかったのです。
しかし、その3代将軍義満以降も幕府には以下のような苦しい事情がありました。
1. 守護大名の力が強かった
鎌倉時代の守護は、鎌倉幕府にコントロールされた地方を司る軍事的な役割でした。
しかし、南北朝の混乱時期には、幕府の目は地方の隅々までは行き渡らず、そこにいる守護を通して支配する形になっていました。
地方に行けば、幕府よりも守護にその領地の政治的な力もあったわけです。
2. 直轄地が少なく、財源が乏しかった
室町幕府の収入は足利家の所領からの収入に頼っていたのですが、御料所と呼ばれる直轄地が少ないために財源は豊富ではありませんでした。
3. 将軍家直轄の軍事力が大きくなかった
室町幕府に整備された幕府官職の一つに奉公衆があります。
これは将軍直属の軍事力。
しかし、平均して5千から1万人前後だったと言われ、圧倒的な軍事力とは言えない状況だったのです。
おわりに
室町幕府は内部にいろんな悩みを抱えた幕府でもありました。
しかし、これは尊氏や足利家が能力不足であったというよりは、
彼らを取り巻く状況や環境、
特に南朝との攻防と同時進行で作られた幕府であるという事情が大いにあったと思われます。
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