足利尊氏の大好きで大嫌いだった弟、足利直義

 

足利尊氏には同じ母親から生まれた一歳違いの弟

足利直義(ただよし)がいました。

もともとは仲の良い兄弟だったはずなのに、

史上最大の兄弟喧嘩と言われる

「 観応の擾乱(かんのうのじょうらん) 」という戦になってしまいます。

そして弟の死で終了したこの戦。

二人には何があったのでしょうか?

 

尊氏と直義の良い日々、悪い日々

足利尊氏の誕生は1305年。

弟直義はその翌年に誕生しています。

共に父親である足利貞氏(さだうじ)と上杉家からの側室の間の息子たちです。

同母ということもあったのか、
争うこともなくよい兄弟でした。

尊氏は感情の起伏が激しく、
ちょっとシッチャカメッチャカな部分のある人物でしたが、戦上手

戦場ではよく笑っているのを目撃され、
その剛胆な性格で知られています。

一方、直義はいたって真面目で冷静沈着

保守的で義理がたいところもある人物でした。

戦上手とはお世辞にも言えない彼は、
政務のほうに向いていたと思われます。

二人はお互いを補い合う良いコンビだったのです。

実際、室町幕府は二人をトップとして「 二頭政治 」が行われており、
それは兄弟が仲良く生きて行くのに都合の良い体制だったはずでした。

では、二人が喧嘩を始めるポイントはいつだったのでしょう。

 

足利兄弟談「 倒幕したけど、建武の新政、何これ? 」

1321年に後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒すことを画策します。

発覚して一度流罪になった後醍醐天皇が二度目の倒幕を計画。

鎌倉幕府は足利兄弟に出兵させます。

しかし、幕府側が不利になると、
足利兄弟は後醍醐天皇側へ寝返って
鎌倉幕府の京の出先機関である六波羅探題を滅ぼします。

その後新田義貞が鎌倉幕府を落として後醍醐天皇は建武の新政を開始。

しかし、王政復古を目指す帝と
武士社会から希望を託されていた足利兄弟とでは話しが合いません。

兄弟は建武の新政に失望し、
別の政治機構を考え始めます。

この時点での兄弟は息も合い良好な関係です。

直義曰く「 負けても大丈夫。お兄ちゃんがいます 」

のち鎌倉での政務に就いた直義は北条氏に討ち入られるのですが、
帝の了承も得ないまま駆けつけた尊氏に助けられます。

そのまま後醍醐天皇を無視して鎌倉の占領を続けた足利兄弟。

1335年、京に戻らない足利兄弟に後醍醐天皇は追討軍を差し向けます。

一度は出家して戦を拒否した尊氏ですが、
残った戦下手な直義が連戦連敗。

とうとう

「 直義が死んだら俺が生きてる意味が無い! 」

と気を変えて戦線に加わり、
新田軍を破って再び弟を助けるのです。

足利軍は紆余曲折ありながらも最終的に上洛成功。

尊氏はなぜか出家願望を捨てきれず、

「 もう引っ込みたいんです。信心しますからいいことは全部直義に与えて、直義がハッピーに過ごせるようにお願いします 」

との願文を清水寺に納めます。

この時点での直義のセリフは

「 尊氏お兄ちゃん、ありがとう 」

しかないでしょう。

室町幕府は二人三脚で

1338年、尊氏は征夷大将軍となり、
室町幕府を開きます。

後醍醐天皇は吉野に脱出して南朝を創始しました。

室町幕府では尊氏と直義との二頭政治で切り盛りします。

戦には強く、
なぜか人徳はあるのに政務はちゃらんぽらんな尊氏と
戦はダメでも生真面目に政務に励む直義は良いコンビ。

やがて後醍醐天皇が亡くなり、
南朝は力を失いました。

兄弟の性格が上手くかみ合って政治に生かされていた時期といえるでしょう。

直義的には「 お兄ちゃん、やったね 」じゃないでしょうか。

足利直義vs高師直(1348年ごろ)

ところが、直義の保守的なやり方が問題になります。

室町幕府創設の原動力は新興武士。

しかし彼は鎌倉幕府時代の有力御家人ばかりを保護します。

それはまずい、と
尊氏の執事の高師直(こうのもろなお)は直義と対抗します。

そこで直義は師直暗殺を計画。

しかしそれがバレて師直は直義を襲撃し、
直義は尊氏のもとに逃げ込みます。

なんとか尊氏は直義の出家、
暗殺に関係した家臣の配流と師直一族の助命を条件に両者を和睦させます。

ところが、
直義は南朝と手を組むウルトラCで高師直を破り、
師直一派を処刑。

尊氏は一番の家臣・高師直を失ったのです。

直義としては師直さえいなければ、
尊氏との二頭政治を再開できると思ったのでしょうか。

どうやらそれは甘かったようです。

そう、ポイントはココ。

観応の擾乱(1349―1352年)

尊氏にしてみると、
降伏条件として約束した師直一族の助命も、
処刑を執行した上杉能憲(よしのり)の処刑要求も無視され面目丸つぶれ。

もう、直義の好きにさせるわけにはいきません。

尊氏は息子の義詮(よしあきら)と共に直義を京都で包囲。

直義は戦いをさけて越前へ逃亡しますが、
駿河で尊氏に降伏。
幽閉されたのちに謎の死を遂げます。

尊氏側に毒殺されたという説もあります。

直義はついに47年の生涯を終え、
日本各地で戦いを繰り返した観応の擾乱という名の兄弟喧嘩は幕を閉じます。

 

おわりに

直義の死後は尊氏も病気がちになりました。

直義は死後従二位に叙されていますが、
それは尊氏が自分の死の直前に弟のために嘆願したもの。

弟を殺めた尊氏の罪の意識がそうさせたのでしょうか。

本来、尊氏・直義兄弟はやはり仲のよい兄弟だったのです。

ただ、周囲の人々の思惑と状況に振り回され対立せざるを得なかった二人だった・・・と思いたくはありませんか。

 

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku 明石 白(akashihaku)Facebook https://www.facebook.com/akashihaku