足利尊氏とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

足利尊氏あしかがたかうじと言えば、室町幕府を創設した人です。

最初は高氏たかうじという名前でしたが、

ここでは尊氏で統一します。

日本史上第二の武家政権を築いた足利尊氏とはどんな人物だったのでしょう?

 

足利尊氏はどんな人?

プロフィール
足利尊氏

足利尊氏
出典:Wikipedia

  • 出身地:丹波国何鹿郡八田郷上杉荘(現在の京都府綾部市)
  • 生年月日:1305年8月18日
  • 死亡年月日:1358年6月7日(享年54歳)
  • 室町幕府を打ち立てた少し躁鬱の激しい足利家初代将軍

 

足利尊氏 年表

年表
西暦(年齢)

1305年(1歳)足利貞氏の長男として誕生

1333年(29歳)幕命の後醍醐天皇討伐の途中で反旗をひるがえし六波羅探題を滅ぼす。鎌倉幕府滅亡

1334年(30歳)建武の新政

1335年(31歳)後醍醐天皇に対し反乱。後醍醐天皇側の新田義貞を箱根で破る

1336年(32歳)室町幕府を打ち立てる。後醍醐天皇が吉野に逃れ南北朝の対立が始まる

1338年(34歳)北朝より征夷大将軍に任ぜられる

1350年(46歳)足利直義が京を脱出し、観応の擾乱が始まる

1352年(48歳)鎌倉で直義が毒殺される

1358年(54歳)病死

 

足利尊氏の生涯

建武の新政

足利尊氏は源氏の名門の血を引いた足利嫡流の足利貞氏の次男です。

鎌倉幕府は元寇以降弱体化し、

一部の御家人以外は困窮する武士たちを経済的に支えられない状態でした。

1333年、かねてから天皇親政を目指していた後醍醐天皇が

打倒鎌倉幕府のために挙兵(元弘の乱)

尊氏はそれを阻止するため幕命で上洛しますが、途中で幕府に見切りをつけます。

そしてなんと後醍醐天皇に味方して、京都にある幕府の出先機関であった六波羅探題を滅ぼしました。

同時期にやはり源氏の名門、新田義貞が鎌倉幕府本体を滅ぼします。

後醍醐天皇は建武の新政を開始。

南北朝のはじまり

しかし、天皇家や公家ばかりを優先する後醍醐天皇と、

困窮する武士たちの希望の星となっていた尊氏とでは利害が一致しません。

結局、尊氏は後醍醐天皇とも決別

後醍醐天皇が送ってきた新田義貞の軍を押し返し、上洛して光明天皇を擁立(北朝)。

征夷大将軍となり、室町幕府を開きました。

一方、後醍醐天皇は吉野に逃げ南朝を創始。

ここに南北朝が始まります。

幕府では尊氏が弟直義ただよしとの二頭政治を布きましたが、

のちに対立して観応かんおう擾乱じょうらんを引き起こします。

弟の死をもって乱は終息しますが、

その後尊氏は病気がちになり、実務は息子の義詮よしあきらに任せます。

1354年には襲ってきた旧直義派を尊氏が撃退していますが、

1358年にその時の合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで京にて死去しました。

享年54。

関連記事 >>>> 「足利尊氏が作った室町幕府の場所と事情」

 

日本三悪人の一人だった足利尊氏の真の姿

明治から戦前・戦中頃まで足利尊氏が

道鏡どうきょう平将門たいらのまさかどと共に天皇に反逆した「日本三悪人」の一人と呼ばれていたのを知っていますか?

明治政府が天皇を国家の中心に据えて復活させようとしたため、

過去に天皇に反抗した人物は逆賊だとする考え方がはびこりました。

「正しい皇族の血統は南朝だ」と明治天皇と明治政府が判断し、

南朝の後醍醐天皇に対抗し、北朝を支持した尊氏の評価は地に落ちたのです。

その考えは一般国民に対する歴史教育にまで影響し、

特に戦前・戦中は足利尊氏の血をひく子孫たちが世間の冷たい視線にさらされました。

しかし、近年尊氏は再評価されています。

日本史上における第二の武家政権である室町幕府の基礎を造り、初代将軍として采配をふるった重要人物というのが現代の尊氏評です。

関連記事 >>>> 「足利尊氏 その後の家系図に見る子孫と苦労」

 

勇敢さと人徳は、命と物への執着のなさの裏返し?

尊氏は予期しない熱さと冷たさを併せ持った不思議な男でした。

戦での勇敢さと希薄な命への執着

何度か敗戦を経験していながら、肝心な戦さでは見事に勝つ戦上手の尊氏。

戦下手な弟を何度も危機的な状況から救っていることからも優れた武将だとわかります。

戦場での肝の据わりようは格別で、配下の者にとっては大いに頼りになる武将でした。

彼はピンチになると微笑みを浮かべる癖があったらしく、

いくつかの資料に「例の笑いが」と記録が残っています。

何ともクールな癖ですね。

雨のように矢が降り注ぐ戦いの場でも笑って立っていたという尊氏は、自分の命への執着が非常に希薄でした。

戦で形勢が悪くなった時家臣に

尊氏
敵が近づいてきたら自害する時期だけ教えてくれ

と全く動揺せずに言ったといいます。

また、なにかというとすぐに自刃しようとする尊氏を周囲の者が慌てて止めることが何度かあったとか。

不思議な武将です。

関連記事 >>>> 「足利尊氏の大好きで大嫌いだった弟、足利直義」

物欲はないが人徳のある男

尊氏は無欲寛大でした。

山のように届けられた尊氏への贈り物は、届いたそばから次々と人に与え自分には何も残らなかったといいます。

また、戦場で活躍した者への恩賞も惜しみません。

あまりにもぽんぽん恩賞を与えすぎて、他の人物に与えた所領をまた別人に与えるという失敗も。

貰ったほうは取り合いになって大変です。

細かいことが苦手でちょっとちゃらんぽらんだった尊氏でしたが優しさのある武将でした。

敵であった者でも降参すれば彼らを許し、自分の元に迎え入れました。

あの後醍醐天皇を本心では崇敬していたと言われ、戦いを避けようと断髪して寺に引きこもったことも。

天皇が亡くなった時には、天龍寺を建立して菩提を弔いました。

また尊氏との戦いに負けた楠木正成の首が六条河原にさらされていたのをすぐに引き取り、家族の元に送らせました。

家臣に愛され、配下の者たちは皆命を惜しまず尊氏のために戦ったと言います。

ここに、尊氏の残した歌があります。

よしあしとひとをばいひて たれもみな わが心をや知らぬなるらん

(皆、自分のことを好き勝手に言うが、俺の気持ちなど誰もわかってはいない)

まるで後世「悪人」呼ばわりされることを見透かしたようなこの歌。

慈悲深くて剛胆な室町幕府将軍の心の闇を少し見るようで切ない歌です。

 

きょうのまとめ

最後までお読みいただきありがとうございました。

足利尊氏とは、

① 室町幕府を創設した武将

② 日本三悪人の一人として誤解されていたが再評価されている人物

③ 命への執着がなく、豪勇・慈悲心・無欲の三徳を備えた男

と言えるのではないでしょうか。

その他にも足利尊氏にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞご覧ください。

関連記事 >>>> 「えっ。この肖像画は足利尊氏ではない別人?」

 

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku