赤穂浪士は「赤穂義士」もしくは「四十七士」とも呼ばれます。
江戸時代の元禄年間に起きた日本史上最も有名な事件の一つ
「元禄赤穂事件」を起こした赤穂浪士とは、どんな人々の集まりだったのでしょうか。
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赤穂浪士とは?
- 赤穂藩:播磨国赤穂郡(現在の兵庫県赤穂市、相生市、上郡町)周辺を領有した藩
- 赤穂事件発生日(江戸城松之大廊下事件発生日):1701年3月14日
- 赤穂事件決着日(赤穂浪士切腹日):1703年2月4日
- 赤穂浪士中心人物:大石内蔵助
- 「元禄赤穂事件」で、主君であった赤穂藩主・浅野内匠頭の仇を討つために吉良上野介の屋敷に討ち入り、本懐を遂げたのち切腹に処せられた
赤穂浪士 年表
西暦
1701年
2月4日 浅野内匠頭長矩が勅使御馳走役に任命される
3月14日 江戸城松之大廊下で浅野内匠頭長矩が吉良上野介に刃傷事件を起こし、即日切腹となる
3月19日 事件の一報が赤穂にもたらされる
4月15日~19日 赤穂城明け渡し
1702年
1月14日 萱野三平、仕官か討ち入りかの板挟みで郷里の摂津国にて自害。このころ高田郡兵衛脱落
7月18日 浅野大学が閉門と広島差し置きを命じられる
7月28日 赤穂浪士、円山会議にて討ち入り決議
12月14日 吉良茶会の情報を入手
12月15日 吉良邸討ち入り決行。浅野内匠頭墓前に吉良上野介の首級を手向ける
12月16日萱野三平、仕官か討ち入りかの板挟みで郷里の摂津国にて自害。このころ高田郡兵衛脱落
1703年
2月4日 四十六士がお預け先4藩の江戸屋敷にて切腹
4月28日 浪士の遺児吉田伝内・間瀬貞八・中村忠三郎・村松政右衛門らが伊豆大島へ遠島
赤穂事件とは
赤穂浪士が起こしたこの事件は、俗に「忠臣蔵」として知られ、「正保赤穂事件」「文久赤穂事件」と区別するため、正しくは「元禄赤穂事件」と呼ばれます。
どのような事件だったのでしょうか。
事件のきっかけ
発端は、1701年の江戸城での刃傷事件です。
幕府が朝廷からの使者を接待している真っ最中に、禁令を破って播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭が江戸城の松之大廊下で抜刀。
高家肝煎(朝廷との諸礼を司った江戸幕府の役職の上席)の吉良上野介を斬りつけ傷を負わせました。
その理由は、本人である浅野が述べなかったため不明です。
幕府は、吉良はお咎めなし、浅野内匠頭を即日切腹と処分を下しました。
討ち入り決定
主君の一大事は、江戸から故郷の赤穂へと早駕籠で知らされました。
赤穂藩士たちは、喧嘩両成敗ではなく、浅野だけが刑に処せられ吉良がお咎めなしだったこと、浅野家の改易と赤穂城明け渡しに大反発。
筆頭家老・大石内蔵助を中心に籠城、切腹を含めた対処が検討されました。
結局、大石らは籠城せず赤穂城を明け渡し、浅野内匠頭の弟である浅野大学を立てて浅野家再興を目指します。
93名の元藩士たちは起請文を提出し、結束を誓いました。
江戸の赤穂藩士たちには、吉良を討取ろうとする急進派もいましたが、大石は彼らを抑えながらお家再興を諦めません。
しかし、浅野大学が閉門となって再興不可能が決定。
そこで、京都の円山で行われた会議で討ち入りを正式に表明します。
しかし、反対の者たちは同志から抜けていきました。
仇討ちの準備
大石内蔵助は、仇討ちの意志を示した血判を一度全員に返し、メンバーの討ち入りへの意志の固さを試します。
その受け取りを拒否してなおも仇討ちを願う者約50名だけを真の同志としました。
やがて、大石三平と大高源五が、それぞれ別ルートから吉良邸での茶会の情報を入手。
1月30日(旧暦12月14日)には間違いなく吉良が屋敷にいることが判明すると、その日を討ち入り決行日と決定します。
直前になってメンバーから脱盟した者もおり、最後に残った同志は47名でした。
討ち入り
1月30日、早朝の4時頃に一行は吉良邸に到着。
大石内蔵助は表門隊を率い、息子の大石主税に裏門隊を任せます。
彼らの目標はただ一つ、吉良の首のみ。
ひたすら仇を探し、抵抗する者だけと戦い無抵抗の者は捨て置くという、シンプルな作戦です。
吉良討取りは、以下の要領で行われました。
① 表門隊:はしごで屋敷に侵入。裏門隊:大きな木槌で門を打ち破って侵入。両門には人を配置して屋敷から逃げる者に目を光らせる。
② 討ち入りの理由を述べた「口上書」を玄関に前に立てる。
③「火事だ!」と声を挙げて吉良家中の者たちを混乱させ、戦闘開始。
④ 家臣たちの長屋の入り口を外から塞ぐ(これにより邸内にいた100人は、ほとんど戦闘不参加となった)。
⑤ 空の寝具のぬくもりから、吉良はまだ邸内にいると判断し、物置部屋にいた老人を発見。討取り、刃傷事件の刀傷が背中にあることを確認。屋敷の者に吉良の顔を確認させた上で首級をあげた。
⑥ 合図の笛で四十七士全員が集合。
戦闘はたった2時間で目的を達成し、終了となりました。
吉良邸の死者は15人、負傷者23人でしたが、赤穂浪士の死者はゼロ、負傷者が2人でした。
赤穂浪士たちによる討ち入りは大成功だったのです。
浅野内匠頭の墓前への報告
討取った首級は、泉岳寺にある浅野内匠頭の墓前へと届けられました。
途中、2名の浪士が大目付に討ち入り報告へと向かっています。
泉岳寺では墓前に吉良の首を供え、焼香後に箱に詰めて寺に預け、僧から吉良家へと送り届けられました。
一方、報告を受けた大目付・仙石伯耆守は幕府に討ち入りを報告しています。
討ち入り後の赤穂義士たちの処遇
幕府により、赤穂浪士たちは4つの大名家に分けて預けられました。
人々の反応
赤穂浪士たちの討ち入り事件は、またたくまに江戸中の噂となりました。
当時の江戸の商人らの記録や書状などに、身分の区別なく多くの者が浪士たちを称賛していたとあります。
浪士たちの自首を受けた、大目付の仙石伯耆守でさえ大衆と同じ反応でした。
のちに、細川家にお預けとなった大石内蔵助ら17名たちに討ち入りの様子を直接訊ね、非常に感激したことが記録に残っています。
幕府の反応と将軍の決定
幕府内部の人々も浪士を褒め称え、同情無罪とする意見が多数でした。
しかし、本来仇討ちは親や兄など目上の親族のためのもので、主君のために家臣が行うことはありません。
無罪を主張する学者と、法律遵守とする学者が対立しました。
当時の将軍・徳川綱吉は忠義の心を理解する儒教を重んじた人物ですが、民意と法律との間で悩んだあげく切腹を決定します。
武士の名誉を与えたのです。
しかし実は、その切腹も半身をかがめる瞬間に首を打つという、限りなく打ち首に近い切腹でした。
浪士を冷たく扱った藩・手厚く扱った藩。そして切腹
浪士たちを預かった4大名の藩邸はそれぞれ、
<細川越中守綱利の肥後熊本藩高輪下屋敷>
大石内蔵助、原惣右衛門、小野寺十内、堀部弥兵衛など計17名
<水野監物忠之の三河岡崎藩芝中屋敷>
間重次郎など計9名
<松平隠岐守定直の伊予松山藩三田中屋敷>
大石主税、不破数右衛門、堀部安兵衛、大高源五他など計10名
<毛利甲斐守綱元の長門長府藩麻布上屋敷>
岡島八十右衛門など計10名
です。
実は、預けられた藩により浪士への待遇が違いました。
水野家、そして特に細川家では浪士たちを英雄扱いし、松平家と毛利家は罪人として厳しく接したことがわかっています。
そのため、
「細川の水の流れは清けれど只大海の沖ぞ濁れる」
という歌が出回ったほどです。
1703年2月4日、赤穂浪士たちは、それぞれの屋敷でほぼ同時刻に切腹。
彼らの遺骸は、主君である浅野内匠頭と同じ泉岳寺に埋葬されました。
浅野内匠頭と赤穂浪士たちが眠る場所・泉岳寺
1612年に徳川家康が創設による曹洞宗の寺です。
赤穂藩主浅野家の菩提寺であり、浅野内匠頭や赤穂浪士の墓所には今も多くの参拝者たちが訪れます。
赤穂義士記念館には、大石内蔵助の書状など赤穂浪士関連の資料が展示されています。
<萬松山 泉岳寺:東京都港区高輪2-11-1>
きょうのまとめ
今回は「元禄赤穂事件」を起こした赤穂浪士たちについてご紹介しました。
赤穂浪士とは
① 主君・浅野内匠頭の無念を晴らすために吉良上野介への仇討ちを実行した、大石内蔵助を中心とする47名の元赤穂藩士たち
② 周到な計画に基づいて鮮やかに吉良邸討ち入りを決行したあとは、潔く切腹に散った悲劇のサムライたち
③ 比較的平和な元禄時代の江戸でセンセーショナルな「元禄赤穂事件」を起こし、多くの人々によって英雄視された義勇の男たち
でした。
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