戦国武将たちは、それぞれの力を示すために個々で特徴的な兜を身につけていました。
伊達政宗の大きな三日月をあしらった物や、愛という文字を兜に描いた直江兼続。
みな志しを示し、自分の力を誇示するのが目的であったと思われます。
では、戦国の最後の強者と言われた真田幸村の兜はどのようなものだったのでしょう。
またその本物が今も現存しているのでしょうか。
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真田幸村の兜とは
真田幸村の兜は、赤く両側に鹿の角をあしらっていました。
兜の面には、かの「六文銭」が付いています。
三途の川の渡し賃の「六文銭」は、命がけで戦に臨む心意気が込められています。
この兜は九度山で幽閉されていた頃、父昌幸に授けられました。
鹿の角をつけた兜を持つ武将は多く、徳川家康の側近 本多忠勝や酒井忠次などもそうでした。
鹿の角は、戦国武将たちに人気のモチーフだったと思われます。
本物の兜は現存する?
鹿の角に六文銭、現在もこの兜は残っているのでしょうか?
幸村の首がいくつも徳川家康の前に並べられた時、兜も一緒にあったと言われています。
首の一つが本物の幸村のものであれば、兜もあったはずです。
しかし、当時は首を埋葬するときに兜も一緒に埋めていたそうですから、残っている可能性は少ないと思われます。
また、首を討たれたときに敵の足軽などに戦利品として持って行かれた可能性もあります。
少なくとも幸村が最期を迎えたときに身につけていた、鹿の角をあしらい、六文銭をつけた兜の実物は残っていないようです。
仙台真田家に伝わる兜
仙台真田家には、実物の兜が所蔵されているそうです。
仙台真田家とは、大坂夏の陣で幸村が命を落とす前、伊達政宗に託された幸村の子供達が繋いでいった家です。
子供達の中に次男の大八がおり、その大助の子供が伊達家の庇護のもと、片倉守信と名乗っていましたが、
幸村の死から約100年後、真田家の再興が叶い仙台真田家と言われるようになったのです。
その末裔である、真田徹氏が本物の兜を所有しているそうです。
その兜は、ドラマなどで見られるような立派なものではなく、色も赤くありません。
鹿の角はついていますが、小ぶりです。
そしてあの「六文銭」はついていないのです。
当時はいくつか鎧甲冑を作っていたそうなので、その一つなのでしょう。
確かに、我々が想像していた兜は大きすぎて、合戦の最中に返って邪魔だったかもしれないですね。
五月人形
最近、真田幸村の勇猛果敢な姿にあやかりたいと、幸村の兜が五月人形として大人気だそうです。
幸村のように、義に厚く勇敢で、優しい男の子に育って欲しいとの親の願いがよくわかります。
それに幸村の兜は赤で、子供の好きな色ですしね。
そんな現代を幸村はどのようない気持ちで見ていることでしょう。
きょうのまとめ
簡単にまとめておきます。
② 仙台真田家には、真田幸村の兜の一つが残されている
③ 真田幸村の兜が五月人形で大人気
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