豊臣秀吉の後継者、
豊臣秀頼に子供はいたのでしょうか。
徳川家康による大坂の陣のあと、豊臣家は滅亡したと言われています。
今回は豊臣家の最期、豊臣秀頼の子どもについてお伝えします。
豊臣秀頼の正室、側室の子供について
豊臣秀吉の二代目後継者、豊臣秀頼は21歳という若さで母淀殿と共に大阪城で自害しました。
しかし、秀頼には息子がいました。
その名が国松です。
正室の千姫は徳川家康の孫娘でしたが、その千姫との間には子は授かっていませんでした。
国松は側室の伊茶という女性との子でした。
伊茶の出身等は判明していません。
伊勢出身の女中だったという説や、小田原北条家の家臣、成田五兵衛の娘という説、渡辺五兵衛の娘という説などがあります。
豊臣家、そして秀頼にとっても待ちわびた男子、後継者が国松でした。
しかし、生まれてすぐに若狭(現在の福井県南部)の京極家に預けられます。
理由は正室千姫への気遣いからでした。
徳川家という名門の千姫と、側室の身分の低い伊茶とは天と地ほどの身分の違いがあったからです。
京極家は秀頼の母、淀殿の妹・初(常高院)が嫁いだ先でした。
淀殿は男子誕生をできる限り敵方の徳川家康には知られまいとする戦略もあったようです。
なお秀頼の側室から産まれた子としては、女の子、奈阿姫(天秀尼)も生まれています。
母親は詳細不明ですが、側室の小石の方とも言われています。
奈阿姫は大坂の陣敗戦後、処刑を免れ、出家して俗世を離れました。
豊臣秀頼の後継者、国松について
国松は慶長13年(1608)に生まれ、京極家で育てられます。
国松が生まれて初めて父・秀頼と対面したのは大坂冬の陣のときでした。
8歳になった国松は元服を済ませ、秀勝と名乗っていたそうです。
秀勝という名は名門そのものでした。
丹羽長秀の「秀」と柴田勝家の「 勝」の字を受け継ぎ、期待された証と言えそうです。
大阪冬の陣の和睦後、国松は一時の間を父・秀頼や祖母・淀殿と一つ屋根の下で暮らしました。
しかし、翌年に改めて大阪夏の陣が勃発します。
敗北を悟った秀頼は国松と盃を交わした後、田中六郎左衛門と乳母と共に国松を城外に逃がしました。
国松が父・秀頼と過ごした時間は半年にも満たないものでした。
大阪城を出た国松は伏見に潜伏していましたが、徳川方の捜索により連行されました。
市中車引き回しの後、六条河原で田中六郎左衛門、長宗我部盛親と共に斬首されました。
8歳という幼少でした。
その遺骸は京極家の京極龍子が引き取り、供養したといわれています。
国松の生存説?!
しかし、国松には生存説があります。
国松はわずか8歳で処刑されたと言われますが、豊後(今の大分県)で生き延びたという逸話も残されています。
それが、豊後の日出藩の藩主である木下延俊の四男・木下延由ではないか、という説です。
木下家は豊臣秀吉の正室ねねの実家でした。
木下延由が国松と言われる理由の一つに、木下延由が亡くなった後に作られた位牌にはある文字が書かれていたそうです。
その位牌のウラ側には「木下縫殿助 豊臣延由」という文字が刻まれていたとのことです。
また、木下延由にはもう一つ不思議なことがありました。
当時、四男はそれほど重要視されず、不遇の身にあるのが常でした。
しかし、この木下延由には「立石領5千石」の領主に抜擢されているのです。
父である木下延俊は日出藩領3万石、その中から四男でありながら、非常に多くの領地が与えられました。
また、木下延由は徳川幕府から交代寄合という参勤交代を義務付けられた上級旗本に任じられています。
この立石領の木下家系は明治まで続いています。
優遇された木下延由が国松だったかどうかは定かではありませんが、国松の生存説として語り続けられています。
きょうのまとめ
豊臣秀頼の子供について見てきましたが、いかがでしたでしょうか
豊臣秀頼の子供は、
① 側室との間に国松という男子がいた
② もう一人、側室との間に女の子がいたが出家している
③ 国松はわずか8歳で徳川家康に処刑されてしまった
④ 国松は豊後(今の大分県)の木下家で生存説がある
と言えるのではないでしょうか。
豊臣秀頼については、他にも色々な記事があります。
よろしかったらご覧になってみて下さい。
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