豊臣秀頼は秀吉の子供ではない?!その理由とは?

 

ご存知、豊臣秀吉の後継ぎ、

豊臣秀頼

徳川家康に敗れ、母の淀君と共に大阪城で自害しました。

この豊臣秀頼が、豊臣秀吉の子ではないという説があるのです。

今回は豊臣秀頼の親についてお伝えします。

 

通説では豊臣秀吉と淀殿の子が秀頼

豊臣秀吉の後継ぎ、豊臣秀頼は、豊臣秀吉と淀殿の子であるというのが通説です。

しかしこの豊臣秀頼は秀吉の子ではない、という説があります。

理由は3つあります。

・豊臣秀吉には正室、側室含めて16人以上いたが、子が生まれたのが淀殿だけであること(淀殿には秀吉の子には鶴松という息子がいたが、3歳で亡くなっている)

側室の大半は秀吉の側室になる前後で出産の経験があり、秀吉の生殖機能に問題は無かったのかという疑惑につながっている

・秀頼が生まれた時期は、豊臣秀吉が57歳の時であり高齢であること

・資料から受胎日とされる日に秀吉と淀殿が一緒にいない可能性が高い

このような理由から、豊臣秀頼は秀吉の子ではないのではないか、と疑惑の説があるのです。

 

豊臣秀頼の父親は誰か

では、誰が父親である可能性が高いのでしょうか。

今となっては真相は分かりませんが、可能性として挙げられている人物は5人ほどいます。

一人一人追ってみましょう。

大野治長

一番有力な説が大野治長おおのはるながです。

大野治長は豊臣氏の家臣。

大野治長の母親は、淀殿の乳母でしたので、大野治長と淀殿とはお互い信頼関係は強かったようです。

大野治長は大阪城で秀頼、淀殿が自害した際、一緒に自害しています。

当時から大野治長と淀殿が密通しているという噂もあったようです。

また、随筆「明良洪範めいりょうこうはん」に以下のような文言があります。

秀吉公ノ子ニアラズ 大野修理ト密通シ拾君(鶴松)ト秀頼ヲ生セ給フト

このような背景から、秀頼は大野治長と淀殿の子であるとも言われています。

名古屋山三郎

名古屋山三郎なごやさんさぶろうは織田信長の縁戚であり、蒲生氏郷や森蘭丸の一族である森家に仕えた武将です。

妻と言われる出雲阿国いずものおくにとともに「歌舞伎の祖」と言われます。

戦国時代きってのイケメンと言われ、淀殿と密通していたのでは?という噂があったそうです。

石田三成

ご存知豊臣家「五奉行」の筆頭、石田光成

関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れた大名としてあまりにも有名です。

淀殿(茶々)と同じく近江国(現在の滋賀県)生まれであることなどから可能性の一つとして挙げられています。

ただ、秀頼の生誕の前年には朝鮮半島に赴任しており、フィクションである可能性は高いです。

真田信繁(幸村)

真田信繁さなだのぶしげ(別名幸村)も大坂の陣で大活躍した武将の一人です。

伝説では真田信繁は大坂の陣で大阪城から逃げのび、秀頼とともに鹿児島へ生き延びたという逸話もあります。

これもフィクションである可能性は高いと言われています。

無名の陰陽師

当時、懐妊のための祈祷が頻繁に行われていました。

その祈祷を担当するのが陰陽師です。

この陰陽師が秀頼の父親ではないか、という説があります。

その理由の一つとして、秀吉は淀君の当時担当した陰陽師を、秀頼出産後すぐに追放させたからです。

豊臣秀吉と淀殿の子どもと言われる、豊臣秀頼はこのように実際の父親が誰か疑われています。

様々な臆測が飛び交っています。

 

きょうのまとめ

豊臣秀頼の父親について見てきましたが、いかがでしたでしょうか

豊臣秀頼の父親は、

① 豊臣秀吉であると通説では言われている

② 秀吉は子供ができない体質であり、実際は父親ではないとも言われている

③ 大野治長、名古屋山三郎、石田三成、真田信繁、無名の陰陽師が父であるとの説がある

と言えるのではないでしょうか。

豊臣秀頼については、他にも色々な記事があります。

よろしかったらご覧になってみて下さい。

豊臣秀頼の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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