1637年に起こった島原の乱。
キリシタン天草四郎が中心となった農民の反乱です。
この天草四郎が豊臣秀頼の子どもではないか、という言い伝えが残されています。
今回は豊臣秀頼と天草四郎についてお伝えします。
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豊臣秀頼の生存説
ご存知豊臣秀吉の息子、豊臣秀頼。
母淀殿と共に大坂の陣で敗北し、大坂城で自害しました。
しかし一説では豊臣秀頼が大坂城から脱出し、鹿児島で生き延びたという言い伝えが残されています。
当時、
花のような秀頼様を、鬼の様なる真田が連れて、退きも退いたり加護島へ
というわらべ歌も流行りました。
また、鹿児島には豊臣秀頼のものとされる墓が残されています。
これが、自害したはずの秀頼が九州の鹿児島で生き延びたという生存説です。
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豊臣秀頼の子が天草四郎?!
1637年、島原の乱が起こります。
島原の乱は、島原半島(長崎県)と天草諸島(熊本県)で、百姓たちの大名への不満がきっかけで始まった戦いです。
江戸時代を通じ最も幕府が追い込まれた最大規模の農民の反乱とも言われています。
元々はキリシタン大名が治めていた地域のため、キリスト教徒が多く生活していました。
江戸時代初期「禁教令」が発令されキリスト教徒は迫害されたことも背景にあります。
この島原の乱を主導したのが、天草四郎です。
この天草四郎が、豊臣秀頼の子どもではないかという言い伝えがあります。
なぜ、天草四郎が豊臣家?
ではなぜ天草四郎が豊臣秀頼の子ではないか、と言われているのでしょうか。
一番有名な理由は、天草四朗の馬印が豊臣秀吉と同じ「千成瓢箪」だったからです。
馬印とは、大将の所在を示す旗のことで、当時の武将は独自の模様の旗を持っていました。
天草四郎はこの馬印が豊臣家の模様だったのです。
また、薩摩の書物では天草四郎の事を豊臣秀綱という名前で記しているものがあります。
こういったことから、天草四郎は豊臣秀頼の子どもではないか、という言い伝えが残されています。
実際の天草四郎と豊臣家の関係
島原の乱が起こった島原・天草地域。
もともと小西行長という豊臣家の家臣が治めていました。
小西行長もキリシタン大名であったと言われています。
小西行長の家来であった益田甚兵衛の子が天草四郎でした。
つまり、天草四郎は豊臣秀頼の子ではないにしても、豊臣家とは深い関係のある人物でした。
しかし、徳川幕府は豊臣家との血縁が無いにしても、豊臣家とゆかりのある反幕府勢力を許しませんでした。
結果、天草四郎とキリスト教信者達は全員討ち死にとなったのです。
きょうのまとめ
豊臣秀頼と天草四郎について見てきましたが、いかがでしたでしょうか
豊臣秀頼と天草四郎は、
① 豊臣秀頼の子が天草四郎という言い伝えがある
② 理由は天草四郎の馬印が豊臣家のものであったから
③ 島原の乱の土地柄も豊臣家とゆかりの深い土地だった
と言えるのではないでしょうか。
豊臣秀頼については、他にも色々な記事があります。
よろしかったらご覧になってみて下さい。
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