豊臣秀吉の息子、
豊臣秀頼。
最後は大坂の陣で徳川家康に滅ぼされ、自害したとされています。
しかし、鹿児島で秀頼の生存説が存在しています。
今回は豊臣秀頼は鹿児島で亡くなったのかどうかについてお伝えします。
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通説での豊臣秀頼の最期
豊臣秀吉の息子、秀頼は通説では、大坂の陣で大坂城で切腹したとされています。
母である淀殿と共に慶長20年(1615)5月8日、燃え上がる天守閣の北・山里丸の蔵の中で自害しています。
しかし、その激しい炎のため、真っ黒となった遺体は男女の区別さえできない状態だったと言われています。
昭和55年(1980)の大坂城三の丸の発掘調査では、三人の頭蓋骨と馬1頭の頭の骨が発見されています。
その中に秀頼のものではないかとされる骨が発見されています。
その理由は、以下です。
① 20代の男性のものだったこと
② 顎に介錯されたとみられる傷があったこと
③ 左耳に障害があった可能性があったこと
④ 骨から類推される体格も伝えられている秀頼のものに似ていること
しかし、この証拠では、はっきりとした秀頼の骨とは言い切れません。
このことから、実は秀頼は生き延びたのではないか、という話につながっています。
通説での豊臣秀頼の墓について
秀頼の墓所は複数あります。
有名なのは京都にある養源院です。
養源院は母淀殿が実家の浅井家の人々のために創建、秀頼と共に淀殿も眠っている場所として知られています。
淀殿の妹お江の方がこの二人の菩提を弔った場所としても養源院は有名です。
その他、遺骨が埋葬された京都の清涼寺や、和歌山の高野山奥の院も豊臣秀頼の墓所として有名です。
鹿児島に豊臣秀頼の墓?
大坂の陣で自害したという通説に反し、実は鹿児島に生き延びたという噂が流れました。
大坂の陣の後、京都ではあるわらべ歌が流行りました。
花の様なる秀頼様を、鬼のやう成る真田がつれて、退きものいたよ加護島へ
この歌にあるように、豊臣秀頼生存説には真田信繁が深く関係をしていたと伝えられています。
また、当時のイギリス商館長リチャードコックスが日記に
秀頼様は薩摩あるいは琉球に逃れたとの報あり
と記されています。
さらには「真田三代記」にも真田幸村と共に秀頼が薩摩に下ったと記されています。
そして何より、豊臣秀頼生存説には、鹿児島で秀頼の墓があると言い伝えがあるのです。
鹿児島市の谷山地区には豊臣秀頼の墓と伝えられる塔があり、今でも現存しています。
また、秀頼が生き延びて住んでいたと言われる谷山地区には「谷山犬のくれ逃げ」という伝承もあります。
これは、秀頼と思われる大男が城下町で度々食い逃げをして暴れ回っていたという噂に由来するそうです。
秀頼は身長が197cm、体重が161kgあったと言われており、この大男の伝説に結び付いているのかもしれません。
さらには「日田郡志」という古文書や、薩摩のお寺の文書にも豊臣秀頼生存説を示す記録があると言われています。
きょうのまとめ
豊臣秀頼の鹿児島生存説について見てきましたが、いかがでしたでしょうか
豊臣秀頼の鹿児島生存説は、
① 大坂の陣で秀頼が死んだ証拠が見つかっていない
② 京都では秀頼生存説のわらべ歌が流行った
③ 鹿児島に秀頼の墓所や言い伝えが受け継がれている
と言えるのではないでしょうか。
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