浪人の身から、戦国の三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)に仕え、
わずか一代で土佐一国の主にまで登り詰め、土佐藩の祖として歴史に名を残した
山内一豊。
一豊は様々な合戦に参戦して武功を重ねた名将でありますが、
一豊を「内助の功」で生涯に渡って助けた妻・千代と共に、2006年には大河ドラマの主役に取り上げられるなど、その知名度も高い武将です。
山内一豊はいったいどんな人物だったのでしょうか?
年表や逸話を交えて詳しく解説していきます。
どうぞ最後までお読みください。
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山内一豊はどんな人?
- 出身地: 尾張国葉栗群黒田城(愛知県一宮市、異説あり)
- 生年月日:天文14年(1545年)または天文15年(1546年)
- 死亡年月日:慶長10年9月10日(1605年11月1日)
- 妻、千代の「内助の功」も手伝って土佐一国の主にまで出世した立身の将。
山内一豊 年表
1545年(0歳)尾張国葉栗群の黒田城で生まれる。(幼名、辰之助)
1557年(12歳)兄の十郎が織田信長の軍勢に襲われて討死。
1559年(14歳)父、盛豊が信長との戦にて討死。様々な主に仕え、流浪の日々を送る。
1568年(23歳)信長に仕え、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)の配下となる。
1573年(28歳)朝倉家との刀根坂の戦いで三段崎為之を討ち取る。妻・千代を娶る。
1577年(32歳)播磨国(兵庫県)に2000石の所領を持つ。秀吉に従い様々な戦いに参陣。
1583年(38歳)賤ヶ岳の戦いの前哨戦である伊勢亀山城の戦いで一番乗りの武功を挙げる。
1590年(45歳)秀吉の小田原征伐に参陣し、遠江国(静岡県)掛川城に5万1000石の所領を与えられる。
1595年(50歳)8000石を加増される。
1600年(55歳)徳川家康に従い会津征伐に参陣。小山評定で家康に協力する発言。その功績が評価され土佐(高知県)一国を与えられる。
1603年(58歳)豊臣姓を与えられる。
1605年(60歳)高知城にて病死。
家族を失い、一から出世を重ねた苦労人
山内一豊の生涯をみていきましょう。
相次いで兄と父を亡くす
尾張国黒田城で城主・山内盛豊の三男として生まれた一豊は、幼少時代を黒田城で家族と共に過ごしていました。
しかし、盛豊の主君である織田信賢と同族の織田信長との間で争いが起こると、
一豊は兄と父を相次いで亡くす悲劇に見舞われてしまいます。
主君・織田信賢も信長との戦いに敗れ、従っていた山内家も散り散りとなって、一豊は流浪の日々を送ることとなります。
家族を奪った信長に仕える
その後、一豊は様々な主に仕えながら尾張国(愛知県)や美濃国(岐阜県)、近江国(滋賀県)を流浪していましたが、
家族を奪った敵でもある信長の家臣として落ち着きました。
当時、信長は勢力を大きく拡大しており、一豊は信長の下でなら出世を成し遂げられると、複雑な思いを抱きながら仕官したのかもしれません。
信長の家臣となり、木下秀吉の部下に配属された一豊の出世街道はここから始まります。
様々な戦いで武功を挙げる
浅井、朝倉連合軍と信長による姉川の戦いを皮切りに、一豊は幾多の合戦に参戦します。
朝倉家との戦いである刀根坂の戦いでは、頬に矢を受けながらも、敵将・三段崎為之を討ち取る功績を挙げます。
その後も功績を重ね、播磨国に2000石の領地を手に入れた一豊は、秀吉に従って中国地方を巡る戦いに参戦していきます。
信憑性は定かではありませんが、天正9年(1581年)に信長が行った「京都御馬揃え」の際には、妻・千代が黄金を差し出して一豊に名馬を買わせたという美談も伝わっています。
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大名として立身
信長が本能寺の変で滅亡し、秀吉の時代になると、一豊は秀吉の養子である羽柴秀次の家老となり、遠江国に5万1000石の領地を与えられて大名として立身します。
後に秀次が謀反の疑いをかけられて秀吉に処刑される「秀次事件」が起こると、
一豊は秀吉に従って秀次を取り調べる立場となり、その功績が認められて8000石の加増を受けます。
秀吉が亡くなり、徳川家康が台頭すると、一豊は家康に付き従い、会津(福島県)の上杉景勝を討伐する戦いに参戦します。
家康への忠誠を誓った小山評定
会津へ向かう道中、妻、千代が送った使者が一豊の陣中を訪れ、石田三成が家康を討つために挙兵したことを一豊に伝えると、一豊は家康にこの情報を伝えます。
家康は居合わせていた大名達を集めて会議(小山評定)を開き、家康と三成どちらに付くか迷っていた大名達は困惑しますが、
一豊が自らの居城・掛川城を家康に明け渡し、協力をする旨の発言を真っ先にしたことで、周りの大名も家康に協力する決意を固めます。
関ヶ原の戦いで目立った活躍は無かったものの、一豊のこの発言に感激した家康は一豊に土佐一国を与えて、20万石の大大名として君臨します。
関連記事 >>>> 「山内一豊と掛川城」
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土佐国主としてその生涯を終える
土佐に入った一豊は旧主、長宗我部家の家臣達の反乱に四苦八苦しながらも、高知城の築城や城下町の整備など、土佐藩が幕末まで命脈を保つ礎を築き上げました。
慶長10年(1605年)、一豊は高知城にて60年の生涯に幕を閉じます。
いつ命を落とすか分からない戦国時代の中で、時節を見誤ることなく、主君を変えて出世を重ねていった一豊は、まさしく戦国時代屈指の名将と言えるでしょう。
関連記事 >>>> 「土佐藩の祖、山内一豊の家系図について」
山内一豊にまつわる逸話
領民に刺身を禁止した
一豊は土佐国主となってから、食中毒が蔓延することを防ぐために領民にカツオの刺身を食べることを禁止させました。
しかし、領民の中にはカツオの刺身を好んで食べる者も大勢いたため、
これに困った領民はカツオの刺身の表面だけを炙って、刺身ではないと言い張って食べるようになりました。
これがカツオのたたきの起源として広まっていったとする説が存在します。
くじ引きを無視
秀吉の家臣だった頃、一豊は他の2人の同僚と共に敵と内通していた梶原という武将を成敗するように秀吉から密命を受けました。
誰が一番最初に裏切り物に斬りかかるか、3人は口論となりましたが、
らちがあかないのでくじ引きで決めようという結論になり、一豊はくじを引くと3番目に斬りかかるハズレを引いてしまいます。
そして、3人は工事現場を指揮している梶原の元に行き、近くにある寺に梶原を誘き寄せて討とうという作戦を練りました。
梶原を誘き寄せるのは3人の中で一番年が下であった一豊の役目となりました。
一豊は梶原に話し掛け、世間話をして梶原の気を引き、寺に梶原を誘き寄せることに成功します。
しかし、梶原は寺の近くに大勢の部下を引き連れて来たためにこのままでは手出しできない状況となってしまいました。
一豊は、
部下が窮屈だろうからこちらへ
と梶原を部下とうまく離れさせると、そのまま斬りかかって梶原を討ってしまいました。
当然、他の2人は黙っていません。約束を守らなかった一豊を2人は激しく非難します。
しかし、一豊は
まだ若造であるが故にこの機を逃してはならないということにしか頭が回りませんでした。
取り返しがつかないことをしてしまったので、今回は私の髪を切るということで勘弁していただきたい。
と言って2人を絶句させたといいます。
きょうのまとめ
最後までお読みいただきありがとうございました。
山内一豊についていかがでしたでしょうか。
山内一豊とは?
② 武勇と政治手腕に優れ、土佐藩の礎を築いた名将
③ 良妻、千代の内助の功に助けられた幸運の持ち主
④ 時節を読み誤ることなく戦国の世を生き抜いた男
と言えるのではないでしょうか。
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