山内一豊が用いた5つ家紋の由来

 

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と戦国の三英傑に仕えた

山内一豊(やまうちかつとよ)。

一豊は信長に仕える前にも様々な武将に仕え、主を点々とする苦難の人生を送ってきました。

一豊が発展させた土佐山内家には複数の家紋が使われていますが、それは一豊が様々な主に仕えて武功を重ねてきた証であるとも言えます。

今回は山内一豊が用いた家紋の由来について、詳しく解説していきます。

どうぞ最後までお読みください。

 

山内一豊が用いた5つの家紋の由来

立波紋(たつなみもん)

元々は一豊の家臣、前野豊成(とよなり)が用いていたこの立波紋は、波が満ち引きする様子が兵法の理にかなっていることから、豊成が家紋として採用したものです。

この話を聞いた一豊は感銘を受け、自らの家紋である丸に三つ葉柏紋を豊成に与えるかわりに、この立波紋を豊成から譲り受けたと言われています。

立波紋の中で他にも有名なものには、2つの波と水しぶきをデザインした斎藤道三の「 道三波 」があります。

鉈紋(なたもん)

織田信長に仕えていた山岡景隆(かげたか)の家紋です。

一豊は流浪の日々を送っていた若い頃、この景隆に家臣として仕えていた時期がありました。

景隆は一豊に200石の知行と、この鉈紋を与えたと言われています。

信長が亡くなった後、景隆は羽柴秀吉に敵対して敗れ、所領を没収されてしまいます。

対して一豊は秀吉の下で武功を重ね、大名として立身していきます。

立場が逆転してしまった両者ですが、土佐山内家の歴代藩主が身につけていた陣羽織には、この鉈紋が確認できます。

一豊は自らが国主となった後も、かつて仕えていた景隆への恩義を忘れることなく、鉈紋を用い続けていたのです。

花桐紋(はなきりもん)

現在でも日本政府が紋章として用いているこの花桐紋は、元々室町幕府や朝廷が用いていたものでした。

羽柴秀吉改め、豊臣秀吉が朝廷から花桐紋を与えられると、秀吉は花桐紋を自らの家紋として用い、豊臣の姓と花桐紋を数多くの家臣達に与えました。

一豊も秀吉から花桐紋を与えられたと伝わっており、一豊は花桐紋のデザインを少し変えて、独自の「 土佐桐 」を用いていたと伝わっています。

白一黒一紋(しろいちくろいちもん)

「 山内一文字 」とも呼ばれるこの家紋は、山内氏の祖、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫である山内首藤家が家紋として用いています。

山内首藤家は貴族の出である名門で、その子孫は備後国(びんごのくに、現在の広島県東部)に大きな勢力を築き上げ、備後山内家として台頭します。

一豊が発展させた土佐山内家は、山内首藤家の家柄であるということを最重要視しており、この家紋は土佐山内家で用いられているどの家紋よりも、重く見られていました。

しかし、土佐山内家が藤原秀郷の子孫であるという確実な史料は現在に至るまで見つかっておらず、一豊の出自については意見が分かれるところです。

丸に三つ葉柏紋

「 土佐柏 」とも呼ばれるこの家紋は、全国に存在する山内家が鎌倉時代から用い続けてきた伝統的な家紋です。

土佐山内家では、一豊の父、盛豊が戦場で柏の木を指物(武士が自らの階級を表すために背中に指した旗のこと)にして武功を挙げたことが由来となり、家紋になったという言い伝えがあります。

幕末の実業家、岩崎弥太郎が立ち上げた九十九商会(つくもしょうかい)は、後に三菱財閥として発展し、現在も国内最大規模のグループとして君臨していますが、

有名な三菱のロゴ「 スリーダイヤ 」はこの土佐柏が元となってデザインされています。

きょうのまとめ

いかがでしたでしょうか。

一豊が用いた家紋の1つ1つには、一豊と関わった人物や、祖先にまつわる様々なドラマがあるのですね。

これら土佐山内家の家紋を見るだけでも、一豊が送ってきた波瀾万丈の人生を感じることができます。

山内一豊については他にも様々な記事を書いています。

興味のある方は是非御覧になってください。

 

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