花山天皇、一条天皇そして藤原道長などの信頼を集めた
陰陽師・安倍晴明は1005年に亡くなっています。
安倍晴明の家系や現代につづく子孫について見てみましょう。
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安倍晴明死後の安倍家
孝元天皇の落胤(貴人が妻以外の身分の低い女性に生ませた子供)である左大臣・阿倍倉梯麿から数えて10代目が晴明だったと言われています。
しかし、本当のところ安倍晴明の両親でさえ誰だったのかは明確ではありません。
父親は、大膳大夫(宮内省の官)・安倍益材あるいは淡路守・安倍春材だったのではないかとされています。
また、伝説によると母親は葛の葉という名の狐だったとも。
要は彼の出生はかなりの謎ということです。
新たなスター「指御子」と安倍嫡流家の没落
晴明には二人の子がいました。
兄・安倍吉平と弟・吉昌です。
藤原道長や藤原実資らに重用され、陰陽寮を主導する信頼厚い陰陽師でした。
そのまま晴明の血筋は代々陰陽師を継承します。
そして平安時代の末期、安倍晴明から5代目の子孫にあたる安倍泰親が登場したのがまさに晴明の再来。
泰親は
・1148年の内裏火災
・1172年の内親王の急逝
・1179年の政変
・1180年の以仁王の挙兵
などを次々と予言します。
人呼んで「指御子」。
しかし、その後安倍家当主の相次ぐ死亡などで安倍氏嫡流家は没落していきます。
陰陽寮の官職や重要な儀式を任されるポストの数には限りがあり、一族内部でそれを争うことが多く激しくなっていったのです。
最高位陰陽師・安倍有世誕生と土御門家
14代目安倍有世は才能のある陰陽師でした。
しかし当時もやはり安倍家はいくつかの系列に分裂し、「宗家」争いを続けていました。
そんな時、有世は室町幕府3代将軍足利義満のための祈祷を行います。
それをきっかけに義満がかなり有世を気に入って重用し、その勢いで昇殿をゆるされ、1384年には従三位の公卿となりました。
これは安倍氏としては500年ぶりの快挙です。
次々と戦や天災を予知する有世の実力は公家社会で大評判。
最終的に従二位参議刑部卿という陰陽師としてはかつてない最高位に上り詰めました。
彼の名前である「有世」が陰陽師そのものを指す俗語になったほどその名は知れ渡ります。
そして有世を祖として安倍氏は土御門という苗字を名乗り、
有世の子孫が文句なしの「宗家」となって代々氏長者(平安時代以降の氏の代表者の呼称。氏族の中で最も官位が高い者が就任した)を務めました。
その後、土御門家は明治維新後も華族として血統が続いたのです。
現在に至る安倍家の子孫
今みなさんがよくご存知で安倍家の子孫と言えば、安倍晋三氏でしょう。
彼は大化の改新で初代の左大臣になった先述の阿部倉梯麻呂という人物の子孫だということです。
この倉梯麻呂は全国の安倍氏(阿部、安部など字違いを含める)の祖だと言われており、安倍晴明と安倍晋三氏は同じ祖先を分け合っていることになります。
晴明の修行の地とされる奈良の安倍文殊院には、安倍晋三氏による献灯碑もあるんですよ。
また、宗家ではありませんが晴明の血を引く27代目だという安倍成道という方が現在陰陽師としてご活躍中のようです。
さて、2017年2月に寂しいニュースが話題になりました。
土御門家の菩提寺・梅林寺(京都市下京区)にある土御門家一族の墓を護る子孫の消息が半世紀近く不明になっているというのです。
そのため、長年の劣化で一族の墓が崩壊しそうになっているのにどうすることもできず寺側も対処に困っておられました。
供養は行えても、身内でない者が壊れていく墓を勝手にどうすることもできません。
とにかく子孫の方が現れてなんとかしないと墓が完全に壊れてしまう、と心配されている様子が新聞記事になっていました。
どんな事情があるのでしょうか、残念なニュースです。
きょうのまとめ
安倍家には晴明以降もスター陰陽師が生まれていました。
そして、どうやら安倍家の子孫は現代にも続いています。
千年もの時間の間に、晴明の血を引いた子孫たちも増え、陰陽師としてではなくとも、今も人知れず日本のどこかで活躍されているのかもしれません。
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