徳川家康に信頼され、一気に出世した
井伊直政。
現在で言えば、
中途採用で入社した若手新人社員があっという間に役員になるような、そんな大出世です。
そう考えると直政ってすごいですよね。
直政は最強の家臣団を率いて、徳川軍で大活躍をするのですが、
どれほど強い家臣達だったのでしょうか?
今回は直政の家臣団についてご紹介します。
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直政の最強の家臣団とは
直政が率いた最強の家臣団とはどんなものだったのでしょうか?
見ていきましょう。
元敵軍の家臣
直政が率いた家臣団は、徳川軍の中でも精鋭部隊でした。
実は、元々の井伊家の家臣ではないのです。
どういうことかと言うと、家康とも戦ったことがある武田家の家臣達なのです。
三方が原の戦いで、家康は武田軍に大敗します。
命からがら逃げ出し、あまりの恐ろしさに家康は脱糞してしまった、
というエピソードはあまりにも有名ですね。
この戦いで家康は、武田軍の強さを身に染みて感じたのでしょう。
やがて織田信長によって武田家は滅ぼされてしまうと、家康はその家臣達を自軍に引き入れようとします。
強い軍隊ならば、敵にするより味方に引き入れてしまったほうが得です。
家康は元武田家の家臣の心を掴むために、
武田家の殉死者や信玄の後を継いだ武田勝頼の菩提を弔うお寺まで建てています。
そこまでするほどに、どうしても武田の家臣達を引き入れたかったんですね。
まさに敵ながら天晴れの戦いぶりだったのでしょう。
井伊の赤備え(あかぞなえ)
直政の家臣団が元武田家の家臣達だということは分かりましたね。
その家臣達の中でも家康が最も恐れたのが山県昌景です。
山県昌景が率いる軍勢は、軍旗にいたるまで軍装の全てを「赤」で統一していました。
この軍勢は「赤備え」と呼ばれ、勇猛で戦上手な精鋭部隊です。
家康はこの赤備えと山県昌景を味方にしたかったと言われています。
三方が原の戦いで破れた際に家康は
とつぶやいたと言われています。
武田の赤備えと言えば、泣く子も黙ると恐れられたと言いますから、「赤備えは徳川にあり」というところを見せたかったのかもしれません。
そしてこの最強の赤備えの指揮を任されたのが直政でした。
それからは「井伊の赤備え」と呼ばれるようになります。
家康は勇猛果敢に敵に突っ込んでいく直政のスタイルが、
赤備えの最強部隊を指揮するのにピッタリと思ったのかもしれません。
井伊谷三人衆(いいのやさんにんしゅう)
直政の家臣には井伊谷三人衆と呼ばれる人たちもいます。
近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時の3人です。
元々は今川氏真に仕えていました。
氏真と言えば、謀反の疑いをかけ直政の父親である直親を殺した人物です。
父親を殺した相手に仕えていた人間を部下にするわけですから、直政の心中は穏やかでなかったのでは?と推測していましますね。
きょうのまとめ
井伊直政の率いた家臣団について、いかがでしたか?
元々敵対していた家の家臣や、父の仇に仕えていた家臣など一筋縄ではいかない
家臣達を率いた直政は、さぞかし大変だったのでしょうね。
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