藤原道長はどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

藤原道長ふじわらのみちながと聞いて、どんなイメージを浮かべるでしょう。

「平安貴族」?「摂関政治」? 

平安時代の歴史を語るときに忘れることのできない人物です。

合戦も下克上もなかった平安時代。

そんな時代の藤原道長とはどんな人物で、何をしていたのでしょうか。

 

藤原道長はどんな人?

プロフィール

藤原道長
出典:Wikipedia

  • 出身地:山城国 京(現在の京都市)
  • 生年月日:966年
  • 死亡年月日:1028年1月3日(享年62歳)
  • 摂関政治の礎を作り貴族の頂点に立った藤原氏ナンバーワン

 

藤原道長 年表

藤原道長の年表です。どのような生涯をおくったのでしょうか。

年表

西暦(年齢)

966年(1歳)藤原兼家の五男として誕生

995年(30歳)道長の長兄関白・道隆と三兄である道兼が次々と死去。道長、右大臣、藤原氏長者となる

996年(31歳)長徳の変で藤原伊周とその弟・隆家が失脚。左大臣に昇進。

1000年(35歳)長女・彰子が一条天皇の中宮(皇后)となる。

1008年(43歳)彰子が敦成親王を出産。

1012年(47歳)三条天皇に入内していた次女・妍子が中宮(皇后)となる

1016年(51歳)三条天皇が譲位し、敦成親王が即位(後一条天皇)、道長摂政となる。

1017年(52歳)摂政と氏長者を嫡男・頼通に譲る。太政大臣となる。

1018年(53歳)三女・威子を後一条天皇に入内させる。威子の立后のときに「この世をば」を詠う。

1019年(54歳)病になり、剃髪して出家する。

1028年(62歳)死去

 

遅咲きのチャンスで掴んだ公家の頂点道長と病に苦しむ晩年

摂政藤原兼家の五男として生まれた藤原道長。

995年、道長30歳の時には関白で道長の長兄である藤原道隆が死去。

その後を継いだ三兄・道兼も数日後に亡くなり、道長に光りが当たり始めます。

そして道隆の嫡男であり道長の甥・伊周これちかとの政争に勝ち、道長は藤原氏長者となって左大臣に昇進しました。

しかし道長は一条天皇の関白になろうとはせず、具体的な人事や文書をコントロールできる左大臣と内覧の立場に留まりました。

道長はすでに定子ていしという后がいる一条天皇に、さらに娘の彰子しょうしを后とさせます。

そして生まれた皇子が後一条天皇として即位し、初めて孫となる天皇の摂政となったのです。

しかも次女の妍子けんし、三女の威子いしをそれぞれ三条天皇と後一条天皇の中宮にさせ、一家で3人の后を輩出する「一家三立后」を達成。

道長は実質上の最高権力者となりましたが、摂政の地位をたった1年で息子の頼通に譲ります。

糖尿病と思われる病に苦しんでいた道長は、政界から引退し出家。

壮大な法成寺を建立し、そこに住んで病気療養しました。

体調が思わしくなく死期を悟った道長は浄土教にすがり、極楽往生を願います。

「最期は九体の阿弥陀像から伸ばされた糸を自分の手に絡ませて、極楽浄土へと向かうことを祈りながら亡くなった」

と言われています。

 

関連記事 >>>> 「藤原道長は摂政? それとも関白だった?」

 

道長にまつわるはなし

政治力については抜群の才能があった道長。

政務以外の道長について見てみましょう。

道長の病

晩年の道長の様子を記した藤原実資の小右記おうき(しょうさき)。

そこには

・のどが渇いて水を大量に飲む

・痩せて体力が無くなった

・背中に大きな腫れ物ができた

・目が見えなくなった

等の道長の症状についての記述があります。

このことから道長の死因は、糖尿病による合併症ではないかと言われています。

ストレスの多い朝廷での激務、食事は現代と違っておかずは塩分の多い保存食が多く、貴族は室内暮らしで常に運動不足。

糖尿病になってもおかしくはない環境が揃っていた上、道長の家系には同じ病で亡くなっているらしき人物が多く、遺伝の可能性も高かったのでした。

職務の影で病と闘っていた道長の苦しみが記録から伝わります。

 

関連記事 >>>> 「藤原道長の先祖と子孫を家系図で簡単に説明」

道長の文化的貢献

平安中期の世の中には、仏の教えが廃れてしまう荒廃の時代を予言した末法思想が世の中にはびこりました。

1052年が末法に入る年だとされ、それを証明するかのように度重なる天災や疫病の蔓延は、当時の力を持った貴族たちをも激しく動揺させます。

せめて幸せな極楽往生を、と人々は浄土教を信仰したのです。

道長のような栄華を極めた貴族たちは、その豊かな生活を来世にまでもって行きたいと、とりわけ熱心でした。

そのため、道長は法成寺という豪壮を極めた美しい寺を建立し、息子の頼通はあの宇治の平等院鳳凰堂を作ったのです。

こうした貴族の阿弥陀仏信仰は、当時の仏教界の一大ムーブメントともなり、結果的には仏教文化を国風美術へと昇華させ、現代に伝わる文化遺産となりました。

それに似たことは道長が貢献した国文学の発展にもいえます。

彼は紫式部や和泉式部のような優秀な女房を集め、娘彰子のための華やかな知的サロンを作らせた道長。

彼は彼女たちに活躍の場を与えたいわばパトロン。

そこから後世に残る傑作文学が生まれ、結果として道長は日本文学の発展を後押ししたのです。

藤原道長のあくなき栄華への欲求が新しい仏教美術、国風文学への牽引力となったことは間違いありません。

 

関連記事 >>>> 「藤原道長にまつわる「日記」と「物語」文学」

関連記事 >>>> 「「この世をば」を詠んだ藤原道長とそのライバル」

 

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。

藤原道長とは

① チャンスが巡れば決して逃さない頭脳明晰な男

② 病に苦しみながらも周到な計画で平安王朝の政治の頂点に立った人物

③ 仏教や文学の国風化と発展の牽引力となったパトロン

その他にも藤原道長にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞご覧ください。

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku