摂関政治の頂点を極めた藤原道長が残した自信と満足感と奢りにあふれた和歌があります。
どうもこの歌のせいで道長は彼自身の印象を悪くしているようです。
同時にこの歌で日本史上における彼のインパクトはさらに強いものになりました。
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栄華の頂点のうた
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
どうして道長はこの歌を詠んだのか、そしてどうしてこの歌が残ったのかについて見てみます。
歌の意味
「この世は自分(道長)のためにあるようなものだ。望月(満月)のように足りないものはなにもない」
現代語訳するとそういう意味です。
自信満々で、満足しきっている様子がありありの歌ですね。
人が「この世の中は自分のためにある」と公言できる状態というのはそうそうあるものではありません。
栄耀栄華を極めた藤原氏のトップですから気持ちは分かりますが、それを口に出してしまうところに奢りが感じられるのです。
だれが伝えた?
藤原道長について伝える書物や記録は複数あります。
しかし、道長の栄華を描いたという『大鏡』や『栄花物語』などいずれの書物にも「この世をば」の歌は取り上げられていません。
道長本人が記した『御堂関白記』にさえも歌は書かれていません。
この歌は右大臣になった藤原実資の日記『小右記』(しょうゆうき)にだけ登場し、注目された歌です。
歌われた場所と状況
この歌が詠まれたのは1018年。
場所は道長の邸宅です。
実はその年の3月に道長の三女の威子が、11歳になった後一条天皇の中宮(天皇の后)となったのです。
そのお祝いをするため多くの貴族たちが集まり、宴会が催されました。
宴もたけなわとなったところで道長は即興で藤原実資に向かって「この世をば」を詠んだのです。
まあ、いわば気分よく酔っぱらった勢いで、ついつい本音が歌に出てしまったという感じでしょうか。
通常、礼儀としては実資が歌を返さなければなりません。
しかし彼は丁重にそれを断り、代わりにその場の一同で一緒にこの「名歌」を声を揃えて詠ずることにしようと提案。
そしてその場の客人一同が声に出して繰り返したのです。
藤原道長の傲慢の理由と冷ややかなライバル
なぜ道長は実資に向かってその歌を詠んだのでしょうか?
実資はなぜ道長のその歌に返歌せず、日記に書いたのでしょう?
道長が歌をうたった背景とは
道長が傲慢になるほど喜んだのには理由がありました。
道長は三女の威子の前に、彰子を一条天皇の后に、そして妍子を三条天皇の后にさせました。
実に一家で三人の娘を天皇の后にすることに成功したわけです。
それはつまり貴族の中の藤原氏、そして藤原氏の中でも道長の家系が天皇家と混じり合って深く繋がり、権力がますます強大になったことを示していました。
だからこそ道長はもう「欠けたものは何もない」と言ったのです。
冷ややかな批評家・ライバル藤原実資
その歌を聞かされて日記に記したのは前述の藤原実資。
権力に媚びない良識人として知られた人物です。
学問に秀でており、有職故実(朝廷の礼式・法令などの古来のきまり)に非常に詳しく、朝廷にはなくてはならない人物でした。
しかも実資は藤原北家嫡流で莫大な資産を持った小野宮流を継承した公卿。
本来は分派である九条流の道長の家系より格上だったのです。
つまり彼は道長のライバル。
しかし、格下だった道長の栄達に嫉妬するような人物でもなく、ただ相手が誰でも理不尽なことは許せないタイプの人だったようです。
実際、彼は道長の政治力については認めていました。
また道長も朝廷が彼なしには回らないことを悟っており、一目おいていた、という友好的ながら緊張感のある関係です。
多くの人々が道長にこびへつらう中、良識に乗っ取って正面切って異を唱えることのできたのは、この藤原実資だけ。
奢った行いをする道長に対して批判や抗議することが何度もありました。
あの宴席で、(おそらく)酔った勢いのため自慢たらたらな歌をうっかり作ってしまった道長。
そんな歌に返歌をしなかったところに実資の心中が窺えるというものです。
おわりに
この時以外にも藤原実資は何度か道長に批判的な行動をしたり、書いたりしています。
道長も選んだ相手が悪かったようですね。
こうして道長の歌は実資の日記「小右記」に書き残され、1000年後の彼のイメージを形作ってしまったんですから。
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