浅井長政とお市が暮らした城は小谷城です。
浅井長政が自害した悲劇の城としても有名ですね。
実は戦国きっての山城としても有名なんです。
現在は城跡しか残っていませんが、どんなお城だったのか気になります。
詳しく見ていきましょう。
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浅井長政の小谷城
難攻不落(なんこうふらく)の山城
小谷城は標高495mの急な山に築かれた山城です。
小谷山の尾根や山筋をそのまま利用した南北に長い城でした。
・後ろには伊吹山
・西には高時川が流れる
天然の要塞だったことから、難攻不落の山城と言われていました。
・出丸
・金吾丸
・大嶽城
・月所丸
・焼尾丸
・福寿丸
・山崎丸
と言った砦が本丸を守るように独立して配置されていました。
簡単には本丸を攻められない構造になっていたのです。
上杉氏の春日山城や尼子氏の月山冨田城などと共に
日本五大山城に数えられています。
<小谷城>
<春日山城>
<月山冨田城>
悲劇の城
越前の朝倉氏と浅井氏は古くからの同盟相手でした。
織田信長が朝倉義景を攻めたことで、長政は義兄・信長と朝倉氏の間で板ばさみになってしまいます。
長政は信長を裏切り、織田・徳川連合軍と戦うことになります。
一説には、長政は信長側だったけれど、父や重臣たちが朝倉側で、説得しきれなかったとも言われています。
一時は一進一退を繰り返しますが、徐々に信長に押され、朝倉義景が自害すると、小谷城は信長の総攻撃を受けます。
落城を覚悟すると、長政は信長の妹でもあるお市と3人の娘たちを逃がし自分は赤尾屋敷で自害します。
難攻不落と言われた城を落としたのですから、信長はやはり凄かったと言えますね。
お市とっては、兄によって夫が自害するということになります。
このエピソードは有名で、悲劇の城として知られているのです。
城跡の見所
浅井長政が自刃して、浅井氏が滅ぶと小谷城は羽柴秀吉に与えられます。
しかし秀吉は長浜城を築いたので小谷城は廃城となりました。
その際に残っていた資材の大半は、長浜城築城のために使われました。
建物は残っていませんが、現在でも石垣や土塁などが残っています。
小谷城の中で最大の石垣が山王丸跡の東斜面に残されている「大石垣」です。
高さ5mの石垣が続いており、一番の見所とも言えます。
大広間へ続く黒金門があった黒金門跡は石段が残っており、当時の様子を偲ぶことが出来ます。
大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」のロケ地にもなった、桜馬場跡からは琵琶湖を一望することが出来るのでおすすめです。
長政とお市も同じ景色を見たのかと思うと、感慨深い気持ちになれます。
長政とお市は大変夫婦仲が良かったと言われています。
小谷城で暮らした年月は、2人にとって一番幸せな時間だったのかもしれません。
きょうのまとめ
浅井長政とお市が暮らした小谷城について紹介しました。
今は城跡しか残っていませんが、2人が暮らした城に思いを馳せることが出来ます。
かなり大規模な城だったことが分かっています。
興味のある方はぜひ、実際に小谷城を訪れてみてください。
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