1583年、無敗伝説を誇る吉川元春。
日野山城のふもとに隠居の館として吉川元春館を建設します。
しかし関ヶ原の戦い後、吉川家が日野山城から岩国(現山口県)へ移動を命じられます。
高さ約3メートルの石垣があるなど、小さな城にも該当する立派な館でした。
今回は吉川元春館や吉川元春にまつわる城についてお伝えします。
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吉川元春と吉田郡山城について
吉川元春は一代で8国の当主にまで成り上がった毛利元就の二男です。
吉川元春がまつわる城については、まず「吉田郡山城」が有名です。
父・毛利元就の居城、吉田郡山城がライバル尼子家に攻められたとき、吉川元春は初陣を飾ります。
これは「吉田郡山合戦」と呼ばれ、わずか11歳の吉川元春は父・元就の反対を押し切って参戦。
みごと初陣で何人もの敵兵を討ち、武功を挙げました。
父・元就は元春の将才をこの時点で感じ取り、
とまで言わせています。
この初陣から吉川元春は合計86戦もの戦をしますが、
「64勝12引分け」とし、無敗の戦歴を残しています。
毛利家はこの吉田郡山合戦で勝利を収めています。
吉川元春と月山富田城の戦いについて
毛利家のライバル尼子家との戦いは度々、
「月山富田城」を舞台にして行われています。
背景にはこの近隣に「石見銀山」(世界遺産)があり、
この権益を奪い合っていたことがあります。
石見銀山を手中に収めることで、莫大な資金力を得て武力を増強できるからです。
また月山富田城は山陰地域の中心的な城でもあり、山陰地域全体のシンボル的城でもありました。
さらには強固な守りで難航不落の城とも言われ、軍事的にも重要拠点でもありました。
そのため毛利家と尼子家による月山富田城の戦いは3度(第一次~第三次)も発生しています。
「第一次月山富田城の戦い」では大内・毛利連合軍vs尼子軍の戦いとなりますが、大内・毛利軍が破れてしまいます。
しかし尼子家主君の晴久が47歳の若さで急死。
尼子家の後継ぎ義久は統率がとれません。
その隙を逃さず、毛利家は「第二次月山富田城の戦い」を開始します。
有利に戦を展開した毛利家は月山富田城に尼子家を追いこみ、兵糧攻めしたのち尼子家を滅ぼし、
ついに毛利家は月山富田城を手にします。
しかし毛利家は九州の大友家と合戦していた隙をつかれ、尼子家の残党が挙兵。
「第三次月山富田城の戦い」が開始。
少数の毛利家は苦戦します。
しかし強固な月山富田城は落城せず、毛利家の主力部隊が戻ることでついに尼子家の残党を征伐しました。
その後、月山富田城は吉川元春が入城し城主となっています。
吉川元春館について
吉川元春は1582年の備中高松城の戦いの後、元長に家督を譲り、
隠居の館として建築したのが「吉川元春館」です。
備中高松城の戦いと言えば、あの織田信長が本能寺の変で急死。
豊臣秀吉が吉川元春と和睦し、明智光秀を打ち取った戦いでも有名です。
その後、豊臣秀吉が天下を手中に収めたことを背景に、秀吉門下となることを認めたくなかった吉川元春は隠居することを決断。
その隠居先が吉川元春館です。
屋敷の規模・外観は
・巨石による長さ約80m、高さ約3mの石垣
小さな城に匹敵する館となっています。
吉川元春が隠居した当時はまだ建築途中で、当主となった三男広家がようやく完成させた館でした。
天下を取った豊臣秀吉は吉川元春を隠居してもなお脅威と考え、九州の島津家攻略に吉川元春の参戦を強要しました。
元春は病を押して参戦するも、途中小倉城で病が悪化、命を落とすこととなりました。
跡を継いだ吉川広家も関ヶ原の戦い後、徳川家康より岩国へ移るよう命じられます。
結局、吉川元春館は「実際にあまり使われることなく廃墟となった」と言われています。
今でも吉川元春館後は石垣などの居館跡が残っており、
国の史跡に指定される9遺跡の中のひとつとして観光地となっています。
きょうのまとめ
いかがでしたでしょうか
「吉川元春館と吉川元春にまつわる城」について簡単にまとめると、
① 吉田郡山城の合戦で初陣を飾り、戦の能力を発揮
② 3度にわたる尼子家との戦いの末、月山富田城を手に入れる
③ 吉川元春館は豊臣秀吉の門下に入ることを嫌った吉川元春の隠居場所
④ 吉川元春館はあまり使われることなく、合戦中に吉川元春は病死
と言えるのではないでしょうか。
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