名君上杉謙信の跡を継いだ上杉景勝はとても厳格な人でした。
幼い頃から謙信公に、いろいろな教養を受けて来ました。
その頃共に謙信に学んだ人がいます。
それは直江兼続でした。
今回は上杉景勝と直江兼続がどのように関わっていったのかを調べてみましょう。
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直江兼続という人物
直江兼続は1560年越後の上田庄でうまれました。
4歳で父親を亡くした兼続は、叔父の上杉謙信の養子となった景勝について春日山城にはいりました。
そこで景勝の小姓として、謙信からいろんなことを学びました。
1581年に直江景綱の娘・船の婿養子になり直江の姓を名乗ります。
兼続は上杉景勝の下で、内政や外交を担っていました。
背は高く綺麗な顔立ちをしていて、小男と言われた景勝よりも目立つ風貌だったといいます。
関ヶ原の戦いの発端となった会津征伐は、兼続が徳川家康に送った「直江状」といわれる書状のせいでした。
それでも上杉家を責めるならいつでもかかってこい。
といったようなとても挑発的なものでした。
五大老の筆頭の徳川家康を相手に堂々と喧嘩をふっかけたのです。
見かけとは違いかなり気の強い、頭の切れる人物だったようです。
彼の兜に「愛」という文字をあしらっていますが、これは人間愛ということではないそうです。
兼続は愛宕神社や愛染明王を崇拝していたことによります。
愛宕神社や愛染明王は軍神でしたので、その御加護を願ってつけたものと思われます。
上杉景勝との仲はどうだったのか
上杉景勝と直江兼続は不仲?
上杉謙信が亡くなった時、彼の養子である景勝と、もうひとり北条から養子に迎えた景虎との間で家督争いが起こりました。
兼続は当然幼少から一緒の景勝の味方でした。
景勝に武田との和睦をさせ、味方につけることに成功し、
御館の乱で勝利し、晴れて謙信の後継となった景勝でした。
この後から上杉家の家老として景勝を支えた兼続ですから、二人の仲は悪かったとは思えません。
しかし「二人の仲はそれほど良くなかった」という見方をする説もあります。
嫡男・景明は早逝してしまい、兼続には跡継ぎがいませんでした。
そこで本多正信の次男・本多政重をむすめの婿養子にしたのですが、
その娘もすぐに亡くなり養子縁組は壊れてしまったのでした。
このままでは直江家は断絶となります。
しかし、この時景勝は直江家存続のために動いていません。
これが二人が不仲であったといわれる要因となりました。
直江兼続の深い思いやり
ただ直江兼続は直江家を断絶したことにより、養子となるはずの本多政重が加賀藩に帰参する際、
多くの直江家や上杉家の家臣を連れて行きました。
これで上杉家は大規模な人員削減ができ、財政的にも助かったのです。
つまり兼続は死後の上杉家のことまで考えていたということになります。
これはやはり、苦楽を共にしてきた景勝に対する思いやりが溢れていると感じるのは自分だけでしょうか。
兼続が病に倒れた時には景勝はとても悲しみ、医療でできるだけの手当てをしたといいます。
景勝も兼続をそれほど深く思っていたのです。
きょうのまとめ
1620年景勝の祈りも虚しく、直江兼続は60年の生涯を終えました。
その3年後上杉景勝は米沢城て亡くなります。
享年69歳でした。
景勝と兼続の遺骨は高野山のお寺に納められているそうです。
死してなお兼続は景勝のそばにいるのですね。
兼続が守った上杉家は幕末まで続いていったのでした。
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