19世紀の前半にウィーンで活躍した作曲家、シューベルト。
『魔王』『子守唄』『野ばら』等、皆さんも一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
生涯で1000もの作品を遺したと言われている彼ですが、若くして亡くなったことでも有名です。
シューベルトとは一体、どの様な人物だったのでしょうか。
今回はその生涯について、主な功績やエピソードと共に見ていきましょう。
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シューベルトはどんな人?
- 出身地:オーストリア ウィーン郊外
- 生年月日:1797年1月31日
- 死亡年月日:1828年11月19日(享年31歳)
- ウィーンの作曲家。「ドイツ歌曲の王」として有名。
シューベルト 年表
西暦(年齢)
1797年(0歳)ウィーン郊外、リヒテンタール教区ヒンメルブフフォルトグルント地区にて、小学校教師の父のもと第12子として誕生。
1801年(4歳)家族でゾレインガッセに移住。
1803年(6歳)父親の小学校に入学。アマチュア音楽家でもあった父から、弦楽器の奏法を習う。長兄からはピアノを習う。
1804年(7歳)音楽の基礎教育を受ける。合唱団で歌い始める。
1808年(11歳)宮廷礼拝堂の少年聖歌隊員に採用される。帝室王立寄宿制学校(コンヴィクト)に入学し本格的に音楽を学ぶ。
1810年(13歳)現存する最初期の作品『ピアノ連弾幻想曲D1』を作曲。
1812年(15歳)変声期を迎え合唱団から除隊。
1813年(16歳)聖アンナ師範学校で教職課程をとり、翌年父親の学校で助教員となる。
1814年(17歳)ミサ曲ヘ長調D105を作曲し、教会で自ら指揮。
1815年(18歳)『野ばら』『魔王』など、代表作を多く作曲。
1817年(20歳)『ます』『ガニメート』交響曲第6番ハ長調などを作曲。
1818年(21歳)実家を出てウィーン中心部に拠点を置く。作品が出版物に掲載される。『イタリア風序曲』がローマ皇帝館にて公開演奏される。
1819年(22歳)『羊飼いの嘆きの歌』が公開演奏される。ピアノ五重奏曲『ます』を作曲。
1820年(23歳)歌劇『双子』と劇音楽『魔法の竪琴』を作曲、上演される。
1821年(24歳)『魔王』と『糸を紡ぐグレートヒェン』が初の出版物となり、やがて「歌曲王」としての地位を確立する。
1822年(25歳)『さすらい人幻想曲』を出版し、器楽曲の分野でも功績が知られていく。
1823年(26歳)体調を崩し入院。
1824年(27歳)弦楽四重奏曲第14番『死と乙女』などを作曲。
1825年(28歳)友人が主催するシューベルト作品の演奏会「シューべルティアーデ」が盛んに催される。
1827年(30歳)歌曲集『冬の歌』などを作曲。
1828年(31歳)交響曲第8番『グレート』、歌曲集『白鳥の歌』などを作曲。初の自作演奏会を催す。11月19日、腸チフスにより2週間の闘病の末死去。
シューベルトの生涯
ここからは早速、功績をもとにシューベルトの生涯についてご紹介していきます。
ドイツ歌曲王
シューベルトの功績を知るうえで押さえておきたいのが、「歌曲王」としての側面です。
彼の約1000曲におよぶ作品のなかでも、600曲以上をリートと呼ばれるドイツ歌曲が占めています。
冒頭でもご紹介した『魔王』『野ばら』などはその代表格に当たりますが、どの作品においても
・創造性にあふれた伴奏
などが評価され、この分野の芸術性を高めた人物として功績を遺しているのです。
ちなみにシューベルトが生まれ育ち活躍したオーストリアはドイツ語圏です。
また、シューベルトはその他のジャンルとして、
・交響曲
・ピアノ曲
・管弦楽曲
などでも多くの作品を遺しており、ピアノ五重奏曲『ます』などはその代表曲として有名です。
シューベルトの音楽は、
・ブラームス
・ドヴォルザーク
など、後世の有名な音楽家たちに多くの影響を与えていくこととなりました。
早世の天才
前述したドイツ・リート2作品については、作曲した当時シューベルトは18歳という若さでした。
31歳の時に罹った腸チフスが原因で亡くなってしまうシューベルトですが、その短い人生は、作曲家としての生涯を見るうえではかなり充実したものだったと考えることができます。
と言うのも彼は、6歳の頃に父と兄からそれぞれ弦楽器とピアノを習い始めると、瞬く間にその才能を開花させていったのです。
息子に才能を感じた父親は、翌年地元の教会のオルガン奏者に息子の教育を依頼。
11歳の頃には、宮廷礼拝堂の少年聖歌隊員の枠に空きが出たため、試験を受けることになります。
見事合格したシューベルトは晴れて聖歌隊員となり、その後変声期を迎えて除隊するまでの約5年間所属していました。
さらにこの聖歌隊入団と同時に、コンヴィクトと呼ばれる帝室王立寄宿制学校に入学し、専門的な音楽教育を受けることになりました。
そしてこのコンヴィクト時代から、多くの作品を作っていくことになります。
中でも、現存する作品として最初のものと言われているのが、13歳の時に作曲したピアノの連弾曲『幻想曲』でした。
その後も創作の意欲が衰えることはなく、次々と代表作を生み出していったのです。
シューベルトは生涯においてモーツァルトの音楽を好み、同時代の先輩的な存在であるベートーベンを尊敬していました。
特にベートーベンの存在は大きく、偉大な音楽家の活躍を前にした苦しみが、彼自身の創造性の原動力ともなったと考えることができるでしょう。
多くの作品を遺したシューベルトですが、実は未完の作品も多く、そこには新たな音楽境地を切り開くための模索の痕跡を見て取れるのです。
影を連れた黄金期
ここではシューベルトの人物像に迫るべく、彼の死因にまつわる逸話をご紹介します。
31歳という若さでこの世を去った天才、シューベルト。
直接の死因は腸チフスに感染したこととされています。
しかし実は、彼はこれ以前より長く体調の優れない日々を過ごしてきました。
25歳の時に重度の梅毒に罹ったと言われているのです。
そして26歳の時には長期間の入院生活も送っており、自身でも病気について言及する書簡が現存しています。
翌年にはかなりの回復を見せたシューベルトでしたが、この病歴が彼の免疫器官にダメージを与えたことは想像に難くありません。
その後のシューベルトの活躍は決して衰えることなく、現在でも有名なピアノ曲などを多く生み出していきますが、それは常に病気の影と共にあったのです。
亡くなった1828年にも新曲の制作はもちろんのこと、自身初の自作演奏会を主催しており、大成功を収めています。
しかしこれが最初で最後になるとは、本人すら思っていなかったことでしょう。
10月末に体調が悪化してからも、対位法のレッスンを受けたり病床で歌曲集の校正を行っていたシューベルト。
しかし11月14日にベッドから起き上がれなくなると、そのわずか5日後に息を引き取りました。
きょうのまとめ
今回はオーストリアのウィーンを代表する作曲家、シューベルトについて、主な功績を中心にその生涯を辿っていきました。
いかがでしたでしょうか。
最後に、シューベルトとはどの様な人物だったのか簡単にまとめると
① 19世紀の初期に活躍したウィーンの作曲家。
② 様々なジャンルの作品を現在に伝えるが、中でもドイツ歌曲やピアノ曲が有名。
③ 31歳の若さで腸チフスにより亡くなるも、創作意欲は生涯衰えなかった。
詩の美しさを際立たせる旋律と伴奏により、その芸術性が高められたシューベルトのドイツ歌曲。
ご興味を持たれた方は、彼の歌曲集などで世界観を味わってみてはいかがでしょう。
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