流刑地の伊豆から挙兵し、平家を滅亡させて鎌倉幕府を創設した源頼朝。
そんな彼には流人として生活をしていた頃より目となり耳となって都の情報を伝え、仕えてくれた
安達盛長という人物の存在がありました。
頼朝の側近・盛長とはどんな人物だったでしょうか。
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安達盛長はどんな人?
- 出身地:不明
- 生年月日:1135年
- 死亡年月日:1200年4月26日(享年66歳)
- 源頼朝の流人時代からの厚く信頼された側近。有力御家人であり、頼朝の死後も13人の合議制メンバーの1人として活躍したが翌年に亡くなった
安達盛長年表
西暦(年齢)
1135年(1歳)誕生
1180年(45歳)源頼朝挙兵の使者として関東武士に従軍の呼びかけを行う。石橋山の戦いで敗戦後、安房国へ逃れる
1184年(50歳)上野国の奉行人(軍事・行政官)となる
1189年(55歳)奥州合戦に従軍。陸奧国安達郡を領有し、安達氏を名乗る
1199年(65歳)出家して蓮西と名乗る。4月、13人の合議制の1人として幕政に参画。三河国守護に。
1200年(66歳)死去
安達盛長の生涯
鎌倉幕府の御家人だった安達盛長は、のち鎌倉時代に繁栄する安達氏の祖となります。
もとは「足立」と名乗っていたようですが、当記事では安達で統一します。
通称は藤九郎。
足立遠元の叔父だとも言われていますが、出自について明確にはわかっていません。
源頼朝の流人時代に尽くす
安達盛長の妻は、源頼朝の乳母・比企尼の娘・丹後内侍でした。
そういった関係上、盛長は頼朝が1159年の平治の乱に敗北し、翌年3月に伊豆へ流されました。
流人の頼朝は公に家来を持つことは許されないはずですが、それでも盛長は当時から頼朝の側近として尽くします。
京に知人が多く、流人生活を送る頼朝に都の情勢を伝える役割を果たしていたと言われます。
また、源頼朝と北条政子は頼朝の流人時代に知り合って恋愛結婚をしたわけですが、その2人の間を取り持ったのは、盛長だったとか。
盛長の娘・亀御前は、頼朝の異母弟・源範頼の妻となりました。
頼朝の挙兵を支える公私ともに信頼された男
1180年、ついに頼朝が打倒平氏を目的に挙兵しました。
その際、関東各地の源氏の累代の家臣や郎党たちを集めるため、使者となって各地を駆け巡ったのが盛長です。
石橋山の戦いで大庭景親を中心とする平氏軍に敗れた頼朝軍でしたが、盛長は頼朝とともに安房国へと逃れました。
その際、頼朝の使者としてすぐに下総国の有力在庁官人だった豪族の千葉常胤に派遣された安達盛長は、加勢を求める説得に成功しています。
1184年頃から上野国の奉行人(政務執行者)となり、1189年には奥州合戦に従軍。
その後陸奧国安達郡を領有するようになると、盛長は安達郡を発祥の地とする安達氏を名乗るようになりました。
『吾妻鏡』には、その頃の頼朝と盛長の関係を示す逸話として、しばしば頼朝が私的に盛長の屋敷を訪れていたことが記されており、いかに頼朝が盛長を信頼していたかが窺えます。
盛長の屋敷は、鎌倉の長谷にある甘縄神明神社の辺りだと言われています。
頼朝の死後
平家一門を滅亡させ鎌倉幕府を開いた頼朝ですが、1199年には落馬が原因で亡くなってしまいました。
その後、盛長は出家して蓮西と号しています。
源頼家が第2代将軍となると、宿老(重臣)として13人の合議制メンバーの1人となって幕政に参画。
同年、三河国の守護に就任しました。
また、盛長は秋に起きた梶原景時の変の際、強硬派の一人として景時の弾劾状にも署名しており、彼を幕府から追放して失脚させた御家人勢力の中心人物の`人でした。
しかし、そんな盛長も翌年1200年4月26日、66歳で死没しています。
頼朝と政子の間を取り持った安達盛長!?
安達盛長が源頼朝と北条政子の間を取り持ったという逸話は『曽我物語』という作者不明の軍記物語に出てきます。
北条時政に3人の娘がいることを知った頼朝。
長女は時政と先妻との娘、2女、3女は現在の妻との娘でした。
そこで頼朝は2女に手紙を書きました。
時政の現在の妻の娘がいいと考えたのでしょう。
実は、当時2女と3女は悪女だという噂があったようです。
そこで頼朝から娘に宛てた手紙を預かった安達盛長は、手紙の宛名を長女の政子に書き換えて届けさせたのです。
こうやって知り合った頼朝と政子は文を交すことになり、のちに夫婦となりました。
盛長の書き換えがなければ、頼朝と政子というカップルは成立しなかったかもしれませんね。
安達盛長の墓所
安達盛長の墓について、2ヶ所ご紹介しましょう。
1ヶ所目は、伊豆の修善寺にある「安達藤九郎盛長の墓」です。
頼朝の信頼が厚かった安達盛長は晩年には鎌倉を去り、修善寺にて隠棲したあと病没し、当地に埋葬されたそうです。
<安達盛長の墓:安達藤九郎盛長の墓 静岡県伊豆市修善寺>
2ヶ所目は、愛知県の長泉寺にあります。
蒲郡市にある長泉寺は、源頼朝が三河国の守護だった盛長に命じて再興させた三河七御堂の一つです。
盛長の墓の五輪塔は、稲荷の奥にあります。
<安達盛長の墓:長泉寺 安達藤九郎盛長五輪塔 愛知県蒲郡市五井町岡海道76>
きょうのまとめ
安達盛長とは?
① 源頼朝にとって流人時代からの信頼のおける側近
② 頼朝の平氏打倒の挙兵のため、武将を説得し軍勢を集めるなど大いに力となった武将
③ 頼朝の死後も13人の合議制メンバーとして幕政に関わった有力御家人の中核
でした。
常に源頼朝のために尽力し、公私ともに信頼された武将・安達盛長。頼朝が亡くなってしまうと、翌年には彼もこの世を去ってしまいました。
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