源行家。
源義朝の弟であり源頼朝の叔父です。
1180年の以仁王による打倒平家の令旨を諸国の源氏に伝達し決起を促した行家とは、どんな人物だったのでしょうか。
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源行家はどんな人?
- 出身地:不明
- 生年月日:1141-1143年?
- 死亡年月日:1186年5月12日(享年46歳 *生年1141説の場合)
- 源頼朝の叔父で、以仁王による平家打倒の令旨を各地の源氏に伝えて決起を促した。弁舌や交渉力に長けたが、のち甥の頼朝と敵対して潜伏先で捕えられ斬首となった
源行家年表
西暦(年齢)
1141年(1歳)誕生
1159年(19歳)平治の乱で兄・源義朝に従軍。敗戦後熊野に逃れる
1180年(40歳)以仁王による平家追討のための令旨を各地の源氏に伝達した
1181年(41歳)尾張国墨俣川の戦い、三河国矢作川の戦いで平家軍と交戦するが敗北。頼朝を頼ったのち、木曽義仲(源義仲)の下につく
1183年(43歳)木曽義仲と共に入京
1185年(45歳)源義経と共に後白河法皇から頼朝追討の院宣を受ける。頼朝による鎌倉からの大軍を警戒し義経と都落ちする
1186年(46歳)和泉国で幕府軍により捕えられ、2人の息子とともに斬首された
源行家の生涯
源行家は、その生涯において利害の状況によって手を組む相手を変えていきました。
巧みに時代を乗り切ろうとする生き方に、彼の野心が見え隠れするようです。
誕生から平治の乱での敗北と潜伏
河内源氏の棟梁・源為義の10男として誕生した源行家の生年は、1141年から1143年の間くらいだと考えられています。
異母兄に源義朝(源頼朝の父)がおり、年齢的には1147年に生まれた源頼朝の4歳から6歳年上の叔父です。
1159年の平治の乱では義朝に従軍しましたが、平清盛を中心とする平家に敗北。
熊野に逃れて新宮十郎を名乗り、以来約20年を熊野で潜伏しながら再起のチャンスを待っていました。
令旨の伝達と挙兵
1180年、後白河法皇の第三皇子である以仁王が摂津源氏の源頼政と結び、平氏追討のための令旨を発しています。
この時に名を行家と改め、各地に散らばる源氏の挙兵を促すために山伏に扮して令旨を伝達する使者となりました。
源行家は、近江、美濃、尾張、三河を巡り、伊豆に流されていた甥の源頼朝、さらに信濃にいた甥の木曽義仲(源義仲)にも挙兵を説得したのです。
以仁王は平家による追討軍によって討たれてしまいましたが、同年8月に頼朝が挙兵。
行家本人は頼朝から独立した形で平家軍に対抗しました。
1181年には、行家の甥で源義朝の8男・源義円と共に平重衡を中心とした平家軍と交戦しますが、墨俣川の戦い(尾張国)、矢作川の戦い(三河国)で大敗。
その時義円は落命しています。
組んでは離れる行家
負け戦から逃れた行家は頼朝を頼り相模国松田に入りました。
しかし、頼朝から所領を与えられなかったことが不満で、今度は木曽義仲の軍勢に加わります。
それを良く思わない頼朝は、これを原因の一つとして義仲との関係を悪化させましたが、義仲が長男義高を頼朝のもとへ人質として差し出したことで、両者の間の和議が成立しました。
1183年5月、義仲から1万の軍を任された行家は、志保山の戦い(能登国)で平家軍と交戦しますが、壊滅的な打撃を与えられます。
しかし、砺波山の倶利伽羅峠で大勝利を収めた義仲軍の救援で平家軍に勝利しました。
1183年7月、行家は義仲とともに入京。
平家一門は6歳の安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちをしました。
入京後、後白河法皇に拝謁した際、行家は法皇の前で義仲との序列を争い、2人は前後に座らず横に並んで拝謁したエピソードが残っています。
結局、平家討伐の勲功は、
・2番 義仲
・3番 行家
となり、行家には不満の残る結果でした。
やがて行家は、義仲と不和になるとさらなる平家討伐を口実に京を脱出しました。
源頼朝を敵に回した行家、そしてその最期
行家は、脱出後の11月、
・籠城した河内国の烏帽子形城で義仲派遣の樋口兼光の軍に敗北
して紀伊国の名草へ敗走。
やがて義仲が頼朝が派遣した源範頼・義経兄弟に討たれると、後白河法皇の命で行家は都に戻り、甥である義経に接近しました。
その後行家は頼朝とは距離を取り、平家追討には加わらずに和泉国と河内国を支配しています。
1185年、平氏滅亡後、頼朝は謀反の疑いがある行家討伐を計画しました。
対する行家は頼朝とは不和となった義経と組んで共に反頼朝勢力を結集。
2人は後白河法皇から頼朝追討の院宣を受け、頼朝に対抗を試みますが、行家と義経に味方する武士団は多くはなかったのです。
結局、頼朝の大軍が鎌倉から上洛する気配を見せると11月3日、行家・義経一行は都落ちししています。
その後、摂津源氏の多田行綱らの襲撃を撃退したものの(河尻の戦い)、暴風雨によって西国への渡航に失敗しています。
1186年5月、行家は和泉国日根郡近木鄕の在庁官人・日向権守清実の屋敷に潜伏していたところを地元民の密告により発見され、鎌倉幕府の命を受けた北条時定の兵に捕えられました。
行家は、長男・光家、次男・行頼らと共に、桂川下流の赤井河原で斬首されています。
源行家の墓所
行家の墓は非公開ながら大阪に残されています。
場所は行家が最後に潜伏していた和泉国日根郡近木郷の在庁官人・日向権守清実の邸内(現在は末裔のかたがご在住)です。
江戸時代に庄屋を務めたというご一族のその屋敷は、現在も土塀や長屋門が残された歴史を感じさせる外観です。
非公開ですのでお参りはできません。
きょうのまとめ
源行家とは?
① 以仁王の打倒平家の令旨を各地の源氏に伝えた使者
② 甥である源頼朝、義経、木曽義仲らの力を利用しながら、独自の地位を築こうとした人物
③ 上昇志向が強く、弁舌が立つ策謀家だが軍の指揮官としての力量には欠けた源氏武将
でした。
人にはそれぞれ向き不向きがあるもの。
源行家自身は合戦に強くはありませんでした。
しかし、彼の行動を辿れば、次々と戦に強い源氏武将とタッグを組み直し、かつ誰からも距離を取りながら世に出て行こうとした行家の姿が浮かび上がって見えます。
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